『FRAGILE』Vol.2
(『FRAGILE』Vol.1からの続き…)
その日は、バレンタインデーだった。朝からずっとそわそわしていて、僕から少し離れたところに、心がポツンと浮かんでいるような気がしていた。いずれにしても、とても寒い一日だったことを、少なからず記憶している…
……部活を終えて、家に帰ってきていた。まだ、気分が落ち着かなかった。ずっと一つのことを考えていた。
何時ぐらいだっただろう。家の電話が鳴った。携帯電話なんてない時代…電話に出た母親が僕に取り次いだ。
同級生の女の子からだった。
彼女は僕の家の前で待っていると言った。小刻みに、声が震えているのがわかった。
僕は急いで玄関を出た。ただ、彼女を見て足が止まった。
彼女は私服姿で立っていた。なんだか、見たことのない彼女のような気がした。
彼女は僕を見て、ホッとしたような顔をした。そしてゆっくりと、僕の前へと歩み寄った。
「はい…これ、チョコレート…」と、小さな声で彼女は言った。でも、もう震えていなかった。確かな声でそう言った。
僕は、ただそれを受け取った。すぐに言葉が出てこなかった。数秒?…実際のところは分からない。少しの空白のあと、何処かに寄り道をして、誰かに借りてきたような聞いたことのない声で、「ありがとう」と僕は言った。そして…
「こんなに寒いのに、ごめんね」と、言葉を絞り出した。
「ううん」と彼女は首を振った。マフラーが同じように揺れた。そして、いつもと同じ笑顔を見せてくれた。
今日一日、僕はその笑顔を見たかった。その笑顔に逢いたかった。その笑顔のことだけを考えていた。
どうしても見たくて、逢いたくて…ずっと見たくて、逢いたくて…たまらなく、見たくて、逢いたくて…
それだけが、胸をいっぱいにして、胸を焦がした。
そして今、目の前にそれがある。白い息が僕に届きそうなほど近くに、それがある…
ただ、それからのことは…よく覚えていない。気が付くと、僕は彼女の後ろ姿を家の前から見ていた。彼女は一度だけ振り返って、手を降った。彼女があの笑顔のままかどうか…もう見えなかった。
僕はもっと大きなマフラーを持っていた。いや、そんなものがなくても、近くを、隣を歩けば、少しは暖かい。わかっている。そんなことはわかっていたはずなのに…どうして、送っていかなかったんだろう。どうして、一人で帰らせたんだろう。どうして、彼女を一人にしてしまったんだろう。
部屋に戻ってから、ずっと考えていた。分からなかった。
僕は中学二年生で、14歳だった…彼女も、14歳だった…
……夕食中も、すっと同じことを考えていた。
気付くと、従兄弟が何かを言っていた。
「何?」
「だから、生ビールのおかわりを注いできてくれないか?」と従兄弟が言った。
物心が付いた頃から、15歳歳上の従兄弟が、我が家で一緒に暮らしていた。それについては、理由等々、ここでは割愛させていただいて、やがて機会があれば、説明させていただきたい。
とにかく、従兄弟に生ビールのおかわりを頼まれた。もうこの頃には、すっかり上手に生ビールを注げるようになっていた。
従兄弟の前に生ビールを置くと、「ありがとう」と言った。そして「こんなに寒いのに、ごめんね」と言った。父と母は、困ったように苦笑いをした。
僕は、反射的に、置いた生ビールを手に取り直し、そのまま従兄弟の顔にめがけてブチまいた。そして、驚く従兄弟と両親を尻目に、自分の席に戻って座った。
我に帰った従兄弟は、すぐに立ち上がり、何も言わずに、僕の頭に拳を振り落とした。座った椅子ごと、地面にめり込むような気がした。
「なんだそれ?痛くねーよ」と、僕が言った。
いや、勝手に言葉が出た。痛くないわけがなかった。痛いを通り越して、どうにかなりそうだった。従兄弟は空手の有段者だった。
「よし、痛くしてやる」と、従兄弟が凄んだ。
父親が従兄弟を制した。「お前は、冷やかし方の、言葉を間違った」と従兄弟に言った。「お前は、仕返しの、やり方を間違った」と僕に言った。そして、「それぐらいにしとけ」と言った。
何かを抑えるように黙っていた母が、従兄弟にタオルを手渡した。そして僕に向かって、ただ頷いた。
従兄弟はタオルで顔を拭い、僕は席を立って、自分の部屋に向かった…
………と、例によって、またあまりにも長くなってしまいました。入り切りません…。今日はここまでにさせていただきたいと思います。
長々と申し訳ございません。明日の『今宵も、閉店に寄せて…』にて、終わりに致します。
明日また、この拙い筆にお付き合いいただけたら幸いです。
『FRAGILE』 Vol.1
甘美な宝石が四つ、ベージュゴールドのボックスから、高らかな香りと共に姿を現し、魅惑の輝きを放った。BVLGARIのチョコレート・ジェムズ(宝石)…
今年は…
「ブルガリ イル チョコラート」がお届けする“サン・ヴァレンティーノ2023”は、自然への称賛と愛、環境を大切にする思いと未来への希望が詰まっている…と添え書きがある。
今年で何年経つだろう?去年もTwitterでツイートさせていただいたと思うけれど、毎年必ず、バレンタインデーに、とある女性から、ちょっとした事情で、BVLGARIのチョコレートを頂戴する。
もちろん、BVLGARIは世界五大ジュエラーにも数えられるハイジュエリーブランドであって、チョコレート専門店ではないけれど、そのアイデアと美しい味わいには、毎年、脱帽している。
ただ、僕にとっては、とても高価で、とても贅沢な戴き物となる…。もちろん相応のお返しをということで…ハイジュエリーブランドではなく、ハイファッションブランドだけれど、同じく非チョコレート専門店の、アルマーニのチョコレートをホワイトデーにお返ししている。
去年は、何故だか?ご褒美として?自分の分のARMANI DOLCEも買ってみた。
前回、月曜日の“今宵も、閉店に寄せて…”の『甘い一日』という投稿に添えた画像は、その時のアルマーニのチョコレートだ。BVLGARIに比べると、とてもシンプルだけれど、これもまた、秀逸なチョコレートだ。
いずれにしても、今年も、BVLGARIの甘美な宝石を口にするのが楽しみで仕方ない。
ただ、この高価なチョコレート・ジェムズよりも、どこまでも輝きを放ち、どこまでも甘く、そして何故だかしょっぱいチョコレートを、昔々…口にしたことがある。
その時の僕は、BVLGARIやARMANIのチョコレートはもちろん、ピエール・マルコリーニやジャン=ポール・エヴァンといった有名ショコラティエのそれを知る由もなかった。デルレイやラ・メゾン・デュ・ショコラのような有名専門店のチョコレートも知らなかった。GODIVAすら、食べたことがなかったかもしれない。
僕は中学二年生で、14歳だった…
……と、このままだと、またあまりにも長くなってしまいそうなので、今日はここまでにさせていただきたいと思います。
まぁ、勿体ぶるようなエピソードでもないので、お恥ずかしい限りですが…次回また、この拙い筆にお付き合いいただけたら幸いです。
『甘い一日』
いたずらな冬の雨が、右肩を濡らした。冷たく、重く、濡らした。小さな傘が、遠い距離が、もどかしい。でも、それでいい。この肩だけが、いくらだって濡れればいい…
いつの時代も、男なら?そんなふうに思える時が必ずある。なんて…
……今日は、雨の一日だった。週初めの月曜日からあいにくの天気というのは、やはりちょっとだけ、憂鬱な気分になる。
風も少しだけあって、どんなに慎重に傘を差していても、歩けば歩くほど、雨はコートの黒をより色濃くした。
気分の晴れないまま、全ての用事を済ませた。もう、家に戻るだけなのだけれど、なんだか少し憂さ晴らしがしたかった。何より、コーヒーでも飲んで、暖まりたかった。
お気に入りの喫茶店でゆっくりするほどの時間は無かった。
それならばと、昨日行ったコーヒーショップに立ち寄る事にした…
……昨日より遅い時間とはいえ、週初めの月曜日だというのに、夕刻前の日曜日よりも、店は混んでいた。
昨日の昼下がりは暖かく、やけに喉が乾いていたので、久しぶりにアイスコーヒーを飲んだけれど、今日はもちろん、ホットコーヒーをオーダーした。昨日とは違う、外が覗ける席に座った。
今日は、日経の朝刊は休刊日だったので、電子版の夕刊にざっと目を通した。コーヒーは思った以上に僕を暖め、そして少し気分を晴らしてくれた。
イスタンブールからの記事を読み、次の記事に目を通し始めた時だった。少し大きな声がした。「大丈夫」と聞こえたような気がした。
目をやると、空席を一つ挟んだ隣の席に、制服姿の二人の女子高生が座っていた。
一人の女の子が、向かいに座る女の子のアッシュグレージュの髪の毛を触りながら言った。
「世界で一番かわいい」
そして、二人は店を後にした。
もう一度、記事を読もうとした時に、ふと日付けが目に入った。
そうだった。明日は2月14日だった。
新聞のアプリを閉じて、天気予報を見た。
冷めてしまったコーヒーを飲み干し、僕も店を出た…
……明日はバレンタインデー。世界で一番かわいい女性達が、世界で一番大切な誰かに、世界で一番甘い想いを伝える。
色とりどりの想いが伝わり、結ばれ、暖まればいい。
予報では、この街は明日、晴れて日差しが届くとのことだ。どうやら、この街の男の右肩が濡れることはなさそうだ。
週初めの月曜日、この街は雨の一日だった。ただ、明けて火曜日は、どこまでも甘い一日になるかもしれない。なんて…
『椅子』
誰もいなかった。一人になっていた。ただ、彼女が席を立ってから、その後、この場所に誰がいたのか、どんな人達がいたのか、まるで思い出せなかった。そもそもの初めから、一人だったのかもしれない…そんな気がしてきた。
閉店時間には程遠かった。僕の席からは、外は見れなかったけれど、まだ日が落ちる時間でもない。
普通なら一番混み合うはずの、休日の、夕方前のコーヒーショップに一人…お店には申し訳ないけれど、悪くない。
もう一度見渡してみた。やっぱり誰もいない。
溶けた氷で薄まったアイスコーヒーと僕、傍らに置かれたコート、ストール、クラッチバッグ、そしてDelReYのチョコレート…他には何もない。
腕時計を見た。ホッとした。何度見ても、世界は止まらずに、動いていた。そして、座るべき椅子はいくらでもあった…
……昼下がりのコーヒーショップは混雑していて、椅子取りゲームのちょっとした大会のように、忙しなく、人が立ったり座ったりしていた。
その間をすり抜けながら、小脇にクラッチバッグを抱え、片手でコーヒーの乗ったトレーを持って歩くのは、なかなか苦労した。
そんな僕の様子をずっと見ていたらしく、一番端の席で、彼女が笑っていた。
席の前に着き、コートを脱いで、ストールを取って座ると、「お疲れ様」と彼女が言った。そして「珍しい…アイスコーヒー?」と驚いた。
「うん。暖かいし、何だか喉が乾いて」と僕が言うと、ただ、黙って頷いた。彼女は、紅茶を飲んでいた。
ストローで、アイスコーヒーを一口飲んでから、頼まれていた本と、彼女が仕事で使わせて欲しいという、ちょっとした資料のようなものを手渡した。特別なことではない。もう五、六年ほど、毎年この時期に彼女に会って、同じことをしている。
「本当に毎年ありがとう」と、彼女は頭を深々と下げた。そして「はい、いつもの」と、紙袋を僕へと手渡した。“いつもの”ちょっと早い義理チョコ兼お礼だった。
「こちらこそ、毎年ありがとう」
「あっ、そうそう…」
「わかっているよ」と僕が言った。「ホワイトデーのお返しはいらないんだよね」
「うん、いらない」と、彼女が笑った。
「でも、こんな高価な義理チョコを、毎年申し訳ないよ」
「この本と資料に助けられているし、それに…」
「それに?」
「誰が、義理チョコなんて言った?」と、今度はいたずらに笑った。
僕も笑って、コートの傍らにチョコレートを置いた。
「ねぇ、エル君に会ってる?」と彼女が聞いた。エル君とは、僕の友人のニックネームだ。
「会っているよ。少なくとも月に二、三回は会って、飲んでいるよ」
「そんなに?」
「うん。年末は、大阪旅行までしたよ」
「二人で?」
「そう、二人で」と言って、僕が笑うと、彼女も顔をクシャクシャにして笑った。
「今度私も、二人の席にお邪魔していいかな」
「もちろん、大歓迎さ」
「ありがとう」そう言うと、彼女は、本と資料をバッグにしまった。
「まだ、いる?」
「うん、もう少しだけ」
「そろそろ行くね」そう彼女が言って、僕はただ頷いた。
オーバーサイズの黒いチェスターコートを羽織って、鮮やかな黄色いマフラーを巻くと、彼女は一度手を振り、バッグと紅茶のトレーを持って、席を後にした。僕が友人と会う時、連絡してとは、一言も口にしなかった。
おそらく僕が、友人に彼女との今日のやり取りを伝えることはない。彼女もそう思っているだろう。
僕達は日に日に、伝えるべきか否かわからないことに、口をつぐむのが上手になっていく。その代わりに、大切なことの伝え方を時に忘れ、いずれ見失ってしまう。
何だか、帰る気分にならなかった。アイスコーヒーを飲んだ。なんの味もしない気がした。スマートフォンで少しだけSNSを覗いた。それから、電子書籍の適当な小説を買って読んだ。
少しづつ、人が減っていった。椅子取りゲームが落ち着いてきたようだ。
僕達は、そんなゲームを何度も何度も繰り返しているのかもしれない。
柔らかい椅子を求め、見つけて、座っては立ち、無くなり、また見つけると、誰かに奪われ、次を求めて彷徨う…同じ椅子にもう一度座れることは…
ただ時に、小さくとも、固くとも、一つの椅子に大切な誰かと座れることもある。もう、立ちたくないとそんな想いになることもある。
そんな想いを求めて、ゲームに飛び込む。そして世界は、止まらずに動き続ける。
ただ、忘れたくはない。ゲームチェンジもゲームオーバーも、決めるのは自分自身だ。
腕時計を見た。時間は十分にある。まだもう少し、座っていよう。
アイスコーヒーの氷が、すっかり溶けて無くなっていた。
『白』
真っ白なスニーカーを素足に履いた。ちょっとした事情で、知人にプレゼントしてもらったまま、どうすることもできずにいたものだ。
いわゆるモードという感じのスニーカーでもなかった。気に入らないわけではないけれど「今日はこれじゃ、出かけられないかな」と僕は笑った。
僕は黒い服を着ていた。コート、ジャケット、ニット、パンツ…全て黒だった。
「うん…」と一つ頷いた後、慎重に言葉を選ぶように、彼女は言った。
「初めて会う人みたい」
その声こそ、何よりも白かった。
あれから、何年経つだろう。その日も、朝から雪が降っていた…
…昨日の朝は、この街にも雪が降っていた。ゴアテックスのサイドゴアブーツやスニーカーと、色々迷ったけれど、結局、防水加工が施されただけで、いつもとあまり代わり映えのしない黒いレザーシューズを履いて出掛けた。
そんなに強く降ってはいなかった。あまり、積もりそうでもなかった。
ただ、電車の窓から覗く家々の屋根は、薄っすらと積もった白色が、既にその彩りを覆い、それだけで初めて見る街のような気がした。ささやかな雪化粧だった。
僕の前に座る黒い学ラン姿で黒いマスクをした高校生は、耳の白いAirPodsと足元の白いスニーカーが映えていた。隣りで眠るグレージュとブラウンのバイカラーのマスクをした女性が目を開きくしゃみをした。そしてまた目を閉じた。
思い返すと、マスクの着用が日常化し、マスク不足の喧騒が収まった頃は、どうせならと、不織布マスクの上に、好きなブランドの布マスクを重ねたり、変わったデザインやパターンのものをしたりと…色々なマスク姿を楽しんだ。それが段々とシンプルになり、最近は時々、ただの白いマスクを好んで着けたりしている。今もそうだ。
それにしても…マスク姿になって久しい。
そう言えば先日、仕事の都合で時々顔を合わせる女性の前で、何かの拍子にマスクを顎までずらした時、“初めて会う”ならぬ、「知らない人がいる」と言われた。僕もマスクを外した彼女を知らない。その日は、彼女も僕も白いマスクをしていた。
この数年の間に出会った人の中には、マスク姿しか見たことがなく、その素顔を知らない人も多くいる。晴れた日を知らない、雪化粧姿の景色のように。
電車を降りて、雪の中、通り慣れた道を歩いた。いつもの横断歩道で信号待ちをしていると、道の傍らに花が咲いていた。こんなところに花が咲いているなんて…知らなかった。
顔の半分を覆うマスクよりも、この街を微かに覆うような雪よりも、それは白かった。
初めて歩く街のような気がした…
…結局昨日は、雪が雨に変わり、積もらなかった。今日の日中は日が射し暖かった。明日はもっと気温が上がり、桜が咲く頃の陽気になるらしい。
桜が咲く頃…その前に、この数年変わらなかった僕達の姿に、変化が訪れるかもしれない。
天気予報と一緒に見たニュースによれば、来月前半にはマスクの着用ルールが緩和され、屋内・屋外を問わず「個人の判断に委ねる」とする方向で、政府が調整に入ったそうだ。
寒い地域でも白い雪化粧が溶け始める頃、僕は白い不織布を外し、何度も顔を見合わせた人達と、再び、“初めての出会い”をするのかもしれない。
おそらくは、白いスニーカーではなく、代わり映えのしない黒い靴を履いているだろう。
ただせっかくなら、真っ白な心持ちで会えたらいい。あの花のように白い…あの声のように白い…そんな心持ちで。