Vol.042『時計じかけの…』
昼下がりに、ビルの合間から漏れた日は暖かく、2月を忘れさせた。ただ、3時間後に、すっかり日が暮れた銀座を歩いていると、寂しかったとでも言いたげに、冬の寒さがまとわりついて離れなかった。
7丁目へと急いだ…
……先週の休日、有楽町にいた。だいぶ前から友人に「買い物に付き合ってくれ」と…かなり雑に誘われていた。
詳細も分からないまま…15時過ぎには、マリオンにいた。
「なぁ、前にマックのCMでキムタクが着ていたスタジャン見ていいか?」と、阪急メンズのSAINT LAURENTを出て、唐突に友人が言った。CELINEのテディジャケットのことだった。
セリーヌに入り、友人はブラックのそれを手に取って、おもむろに鏡の前で合わせた。
店員が「ご試着もできますよ」と言った。
友人は「大丈夫です」と首を振り、テディジャケットを元に戻した。そして店内をゆっくりと一周した。
「お前はいいのか?」
僕は頷いた。そして店を出た。接客してくれた店員は、ナロータイをしていた。そう言えば、アンソニー・ヴァカレロなのに…サンローランの店員もナロータイをしていた。なんだか嬉しかった。
「一生、着れそうにないな」と、エスカレーターで友人が笑った。
「なぁ、買い物に付き合えって、アレのことか?」
「あれなんだよ…最近の木村拓哉のイメージ」
「?」
「これから、『レジェバタ』観るからさ」と友人が言った。
「『レジェバタ』?」
というわけで…友人の“しかけ”に騙され、木村拓哉さん主演の『THE LEGEND & BUTTERFLY』という映画を、突然、観ることになった。
あくまで彼にとってはということだけれど、一人でゆっくりと観たい映画でもなく、女性とデートがてらに観たい映画でもなく、でも、観てみたいという映画の場合…僕の出番らしい。『ONE PIECE』もそうだった。
前回『SLAM DUNK』を、僕が体調不良でドタキャンした事を不可解に思ったらしく、今回は直前まで騙したそうだ。本当だったのだけれど…
「なぁ、東映70周年記念作品を、なんで松竹の丸の内ピカデリーで観るんだよ」と僕が言うと
「そういう時代なんだ」と彼が言った。そして、「ドルビーシネマだから、予約したチケットは2,500円だ」と言った。
まるで、ついていけなかった。
ただ、ある映画を観てから、自分の意志で映画館に足を運ぶことが少なくなった僕にとっては、映画館に誘い出してくれるだけで、有り難かった…
売店には、エールビールしか置いていなかった。仕方なく、それを買った。
それから、2時間48分…スクリーンを見つめ、スピーカーに耳を澄ました。
映画館を出るとすっかり日が暮れていた。友人が予約してくれていた、銀座7丁目のバスク料理の店へと向かった…
……口径の広いグラスに、店員が高い位置から注いで泡立てたチャコリを、友人も僕も、ゆっくりと飲んだ。そして、オリーブのピンチョスを口に入れた。
友人はいつもより喋らなかった。映画の感想も言わなかったし、僕に聞くこともなかった。
ただ、ピルピルという干し鱈の郷土料理を食べてしばらくすると、静かに口を開いた。
「また、劇場でたくさん映画を観たいとは思わないのか?」
「分からないな」と僕は言った。「ただ、ドルビーシネマには驚いた」
友人が頷いた。
「俺がバイトをしてた頃は、光学アナログ式のドルビーステレオから、ドルビー・スペクトラル・レコーディング方式が主流になってどうとか騒いでたぐらいだから…ドルビーアトモスもドルビービジョンも、別次元だよ」
「あれから何年だ?」
「それも、分からないな」と僕が笑うと、友人も笑った。
そしてチャコリを飲み干して、言った。
「よし、地元に戻って『レジェバタ』とセリーヌのスタジャンについて語ろう」…
……映画『THE LEGEND & BUTTERFLY』の感想については、観た人と、これから観る人に委ねたい。
いずれにしても、東映が70周年を迎えた。
一方で、東映創業から20年後に、ドルビーラボラトリーズ社の音響技術が、初めて映画に採用された。作品は、スタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』だった。
最新鋭のドルビー社の技術がどんな“しかけ”か、僕には分からない…友人が次にどんな“しかけ”で、僕を映画に誘い出すかも分からない…ただ、これからも楽しみだ。
とりあえず、我が家の小さなスクリーンと頼りないスピーカーで、久しぶりにキューブリックでも観てみよう。
エールビールではなく、ラガービールを片手に。
『FRAGILE』fin.
(『FRAGILE』Vol.2からの続き…)
二月の夜空と戯れるように、小さな風が吹いては消えた。それを少し遅れて真似るように、窓が時折り、微かな音を立てた。
部屋で一人、僕はもう何も考えられなくなっていた。頭が自分のものではないように痛んだ。
涙が溢れそうになった。泣きたくてたまらなかった。でも、泣かなかった。絶対に泣かなかった。
どうしようもなくなって、彼女からもらったチョコレートの包みを開けた。
箱の中で、赤に覆われた大きなハートの周りを、ピンクに覆われた小さなハートが囲んでいた。
手紙が添えられていた。
何度も読んだ。何度も何度も読んだ。この世界に、こんなに美しく、こんなに素敵な言葉があったなんて…そう驚いた。
そして、僕にとっては、見たこともない輝きを放つピンク色を、慎重に口に運んだ。
すぐに溶けた。甘かった。どこまでも、甘かった。
そして、しょっぱかった。苦いでも、ホロ苦いでもなく、少ししょっぱかった。何故だかそんな気がした。
確かに、また涙が溢れそうになったけれど、必死に堪えていた。泣いていない。そして、口の中を切ったわけでもない。
それでも、そのハートは、どこまでも甘く、そして少ししょっぱい…そんな気がした。
今度は、大きな赤いハートを一口かじった。やはり、どこまでも甘く、何故かしょっぱく感じた。
それが口に溶け、胸に、体に沁みるのを感じながら、僕は目の前にあった彼女の笑顔を思い返した。
もう、こらえきれなかった。涙がゆっくりと頬を伝った…
……と、昔々そんなことがあった。ただ、何年経っても、その日のことを明確に覚えている。そして、2月14日…バレンタインデーの度に、何故だか必ず、思い出してしまう。甘く、しょっぱい思い出として。
彼女とは、中学を卒業して以来、一度も会っていない。一度だけ偶然に、地元のレンタルDVD屋さんで見かけたことがあるだけだ。ただ、彼女は必ず幸せな日々を送っていることだろう。そういう女の子…いや、そういう人だった。
いずれにしても、まだ、FRAGILE(=取扱い注意)というステッカーが、僕のあちこちに貼られていた頃の話だ…
……さてさて、昨日は、春の陽気だった。
4月中旬から5月上旬の気温だったそうで、東京でも20℃を超えたところもあったそうだ。そして、九州や四国では、春一番が吹いたとのことだ。
今日のように、また、寒さが訪れるけれど、段々と春が近付いている。
春…終わりと始まりの季節だ。
新しい季節が、そこに吹く風が、少しづつ何かを消し去っていく。そして、何かを運んで来る。ただ、無くならないものもある…
戴き物のチョコレートを一つ口に入れた。すぐに甘みが広がり、すぐに溶けて無くなった。
でも、その甘さが何かに変わって…僕の何処かに溶け込んだ。僕の何処かに沁み込んだ。
その取り扱い方を、僕は知らない。ただそれは、僕の何処かにあり続けるだろう。
『FRAGILE』Vol.2
(『FRAGILE』Vol.1からの続き…)
その日は、バレンタインデーだった。朝からずっとそわそわしていて、僕から少し離れたところに、心がポツンと浮かんでいるような気がしていた。いずれにしても、とても寒い一日だったことを、少なからず記憶している…
……部活を終えて、家に帰ってきていた。まだ、気分が落ち着かなかった。ずっと一つのことを考えていた。
何時ぐらいだっただろう。家の電話が鳴った。携帯電話なんてない時代…電話に出た母親が僕に取り次いだ。
同級生の女の子からだった。
彼女は僕の家の前で待っていると言った。小刻みに、声が震えているのがわかった。
僕は急いで玄関を出た。ただ、彼女を見て足が止まった。
彼女は私服姿で立っていた。なんだか、見たことのない彼女のような気がした。
彼女は僕を見て、ホッとしたような顔をした。そしてゆっくりと、僕の前へと歩み寄った。
「はい…これ、チョコレート…」と、小さな声で彼女は言った。でも、もう震えていなかった。確かな声でそう言った。
僕は、ただそれを受け取った。すぐに言葉が出てこなかった。数秒?…実際のところは分からない。少しの空白のあと、何処かに寄り道をして、誰かに借りてきたような聞いたことのない声で、「ありがとう」と僕は言った。そして…
「こんなに寒いのに、ごめんね」と、言葉を絞り出した。
「ううん」と彼女は首を振った。マフラーが同じように揺れた。そして、いつもと同じ笑顔を見せてくれた。
今日一日、僕はその笑顔を見たかった。その笑顔に逢いたかった。その笑顔のことだけを考えていた。
どうしても見たくて、逢いたくて…ずっと見たくて、逢いたくて…たまらなく、見たくて、逢いたくて…
それだけが、胸をいっぱいにして、胸を焦がした。
そして今、目の前にそれがある。白い息が僕に届きそうなほど近くに、それがある…
ただ、それからのことは…よく覚えていない。気が付くと、僕は彼女の後ろ姿を家の前から見ていた。彼女は一度だけ振り返って、手を降った。彼女があの笑顔のままかどうか…もう見えなかった。
僕はもっと大きなマフラーを持っていた。いや、そんなものがなくても、近くを、隣を歩けば、少しは暖かい。わかっている。そんなことはわかっていたはずなのに…どうして、送っていかなかったんだろう。どうして、一人で帰らせたんだろう。どうして、彼女を一人にしてしまったんだろう。
部屋に戻ってから、ずっと考えていた。分からなかった。
僕は中学二年生で、14歳だった…彼女も、14歳だった…
……夕食中も、すっと同じことを考えていた。
気付くと、従兄弟が何かを言っていた。
「何?」
「だから、生ビールのおかわりを注いできてくれないか?」と従兄弟が言った。
物心が付いた頃から、15歳歳上の従兄弟が、我が家で一緒に暮らしていた。それについては、理由等々、ここでは割愛させていただいて、やがて機会があれば、説明させていただきたい。
とにかく、従兄弟に生ビールのおかわりを頼まれた。もうこの頃には、すっかり上手に生ビールを注げるようになっていた。
従兄弟の前に生ビールを置くと、「ありがとう」と言った。そして「こんなに寒いのに、ごめんね」と言った。父と母は、困ったように苦笑いをした。
僕は、反射的に、置いた生ビールを手に取り直し、そのまま従兄弟の顔にめがけてブチまいた。そして、驚く従兄弟と両親を尻目に、自分の席に戻って座った。
我に帰った従兄弟は、すぐに立ち上がり、何も言わずに、僕の頭に拳を振り落とした。座った椅子ごと、地面にめり込むような気がした。
「なんだそれ?痛くねーよ」と、僕が言った。
いや、勝手に言葉が出た。痛くないわけがなかった。痛いを通り越して、どうにかなりそうだった。従兄弟は空手の有段者だった。
「よし、痛くしてやる」と、従兄弟が凄んだ。
父親が従兄弟を制した。「お前は、冷やかし方の、言葉を間違った」と従兄弟に言った。「お前は、仕返しの、やり方を間違った」と僕に言った。そして、「それぐらいにしとけ」と言った。
何かを抑えるように黙っていた母が、従兄弟にタオルを手渡した。そして僕に向かって、ただ頷いた。
従兄弟はタオルで顔を拭い、僕は席を立って、自分の部屋に向かった…
………と、例によって、またあまりにも長くなってしまいました。入り切りません…。今日はここまでにさせていただきたいと思います。
長々と申し訳ございません。明日の『今宵も、閉店に寄せて…』にて、終わりに致します。
明日また、この拙い筆にお付き合いいただけたら幸いです。
『FRAGILE』 Vol.1
甘美な宝石が四つ、ベージュゴールドのボックスから、高らかな香りと共に姿を現し、魅惑の輝きを放った。BVLGARIのチョコレート・ジェムズ(宝石)…
今年は…
「ブルガリ イル チョコラート」がお届けする“サン・ヴァレンティーノ2023”は、自然への称賛と愛、環境を大切にする思いと未来への希望が詰まっている…と添え書きがある。
今年で何年経つだろう?去年もTwitterでツイートさせていただいたと思うけれど、毎年必ず、バレンタインデーに、とある女性から、ちょっとした事情で、BVLGARIのチョコレートを頂戴する。
もちろん、BVLGARIは世界五大ジュエラーにも数えられるハイジュエリーブランドであって、チョコレート専門店ではないけれど、そのアイデアと美しい味わいには、毎年、脱帽している。
ただ、僕にとっては、とても高価で、とても贅沢な戴き物となる…。もちろん相応のお返しをということで…ハイジュエリーブランドではなく、ハイファッションブランドだけれど、同じく非チョコレート専門店の、アルマーニのチョコレートをホワイトデーにお返ししている。
去年は、何故だか?ご褒美として?自分の分のARMANI DOLCEも買ってみた。
前回、月曜日の“今宵も、閉店に寄せて…”の『甘い一日』という投稿に添えた画像は、その時のアルマーニのチョコレートだ。BVLGARIに比べると、とてもシンプルだけれど、これもまた、秀逸なチョコレートだ。
いずれにしても、今年も、BVLGARIの甘美な宝石を口にするのが楽しみで仕方ない。
ただ、この高価なチョコレート・ジェムズよりも、どこまでも輝きを放ち、どこまでも甘く、そして何故だかしょっぱいチョコレートを、昔々…口にしたことがある。
その時の僕は、BVLGARIやARMANIのチョコレートはもちろん、ピエール・マルコリーニやジャン=ポール・エヴァンといった有名ショコラティエのそれを知る由もなかった。デルレイやラ・メゾン・デュ・ショコラのような有名専門店のチョコレートも知らなかった。GODIVAすら、食べたことがなかったかもしれない。
僕は中学二年生で、14歳だった…
……と、このままだと、またあまりにも長くなってしまいそうなので、今日はここまでにさせていただきたいと思います。
まぁ、勿体ぶるようなエピソードでもないので、お恥ずかしい限りですが…次回また、この拙い筆にお付き合いいただけたら幸いです。
『甘い一日』
いたずらな冬の雨が、右肩を濡らした。冷たく、重く、濡らした。小さな傘が、遠い距離が、もどかしい。でも、それでいい。この肩だけが、いくらだって濡れればいい…
いつの時代も、男なら?そんなふうに思える時が必ずある。なんて…
……今日は、雨の一日だった。週初めの月曜日からあいにくの天気というのは、やはりちょっとだけ、憂鬱な気分になる。
風も少しだけあって、どんなに慎重に傘を差していても、歩けば歩くほど、雨はコートの黒をより色濃くした。
気分の晴れないまま、全ての用事を済ませた。もう、家に戻るだけなのだけれど、なんだか少し憂さ晴らしがしたかった。何より、コーヒーでも飲んで、暖まりたかった。
お気に入りの喫茶店でゆっくりするほどの時間は無かった。
それならばと、昨日行ったコーヒーショップに立ち寄る事にした…
……昨日より遅い時間とはいえ、週初めの月曜日だというのに、夕刻前の日曜日よりも、店は混んでいた。
昨日の昼下がりは暖かく、やけに喉が乾いていたので、久しぶりにアイスコーヒーを飲んだけれど、今日はもちろん、ホットコーヒーをオーダーした。昨日とは違う、外が覗ける席に座った。
今日は、日経の朝刊は休刊日だったので、電子版の夕刊にざっと目を通した。コーヒーは思った以上に僕を暖め、そして少し気分を晴らしてくれた。
イスタンブールからの記事を読み、次の記事に目を通し始めた時だった。少し大きな声がした。「大丈夫」と聞こえたような気がした。
目をやると、空席を一つ挟んだ隣の席に、制服姿の二人の女子高生が座っていた。
一人の女の子が、向かいに座る女の子のアッシュグレージュの髪の毛を触りながら言った。
「世界で一番かわいい」
そして、二人は店を後にした。
もう一度、記事を読もうとした時に、ふと日付けが目に入った。
そうだった。明日は2月14日だった。
新聞のアプリを閉じて、天気予報を見た。
冷めてしまったコーヒーを飲み干し、僕も店を出た…
……明日はバレンタインデー。世界で一番かわいい女性達が、世界で一番大切な誰かに、世界で一番甘い想いを伝える。
色とりどりの想いが伝わり、結ばれ、暖まればいい。
予報では、この街は明日、晴れて日差しが届くとのことだ。どうやら、この街の男の右肩が濡れることはなさそうだ。
週初めの月曜日、この街は雨の一日だった。ただ、明けて火曜日は、どこまでも甘い一日になるかもしれない。なんて…