『5分』
昨夜、ベッドに入る直前になって、ややこしい事が起こり、今朝は少しだけ起きるのが遅くなってしまっった。つまり…寝坊をした。
何とか取り戻そうと頑張ったけれど、無理だった。今日の予定は、脆くも音を立てて崩れ、もうどうすることもできなかった。
「あと10分…いや、あと5分だけ早く起きていれば…」
時に、そのたかだか“5分”が、些細な歯車を狂わせ、良きにせよ悪きにせよ、思いもよらぬ物語を紡ぐことがある。
恋人達の運命の出逢いを、前代未聞の歴史に残る事件を、或いは、スポーツの奇跡的な瞬間を…
日付が変わり、間もなく…サッカー『ワールドカップ2022』日本vsスペインの大一番が始まる。
今大会は、アディショナルタイムが長く取られる傾向にある。この試合も5分以上のそれが取られるかもしれない。
今日は、その残り時間“5分”を、どのような心持ちで迎えているだろう。「審判、早く試合終了の笛を吹いてくれ」なのか…それとも「まだ、笛を吹かないでくれ」なのか…
もちろん、前者の“5分”を望んで…歓喜の笛を望んで…心の声を枯らしたいと思う。
ただ、試合終了後にウトウトして…寝坊して…歓喜の一日を台無しにしないように、細心の注意を払いたい。
いずれにしても…
その“5分”という時間は、ひどく儚く、ひどく大きい。
『キラキラ』
ふと気付けば、今月も残すところあと2日となった。火曜日、水曜日が定休日の当店にとっては、本日が今月最後の営業となり、次に暖簾を掲げる時には12月を迎えている。
12月を迎える…だからといって、何かが大きく変わるわけではない。よっぽどのことが無ければ、おそらくこの世界はこの世界だし、当店は当店だし、あいも変わらず、僕は僕だ。
平和ボケしていると言われたらそれまでだけれど、今のところ、それに越したことはない。
ただ…僕だけだろうか?それでも何故か、12月は特別なような気がする。
何があるかと言えば…
今年に限っては、サッカーW杯のノックアウトステージが行われる。僕は一泊旅行に出掛ける。例年通りに言えば、忙しさに追われながら、イエス・キリストの誕生日があって、紅組と白組が歌を競い合って、108回に向かって鐘が撞かれ始める…。なんのことはない。
やっぱり、この世界はこの世界だし、当店は当店だし、僕は僕だ。
ただ…よっぽどのことが無ければ…
12月はキラキラしている。
クリスマスに、イルミネーションに委ねるところはあるにせよ、コンビニも、車の流れも、乱雑する看板広告さへも、街を構成するありとあらゆるものが…何だか、キラキラしている。忙しいながらも、どこかそれに心弾みながら、一年最後の日を、その次の新しい一日を、心待ちにしている。
12月はやはり特別だ。キラキラしている…
そして今のところ、それに越したことはない。
『まだまだね』
昨日は、混み合う新宿を避け、近くの髙田馬場で友人と食事をした。
相手が西武新宿線沿線に住んでいるため、この辺りで会うことにしたのだけれど、高田馬場駅で降りるのは、ひどく久しぶりだった。この友人と会うのも夏の初め以来だった。
お互いに、お店もまるで分からないので、僕がグルメサイトで適当に見つけた鳥料理のお店を予約していた。
ただ、街もお店も関係なく、ビールを頼んで、お互いに初めの一杯を飲み干すと、いつも通りの僕達の時間が始まった。
鳥肉のリエットをフランスパンに乗せてほうばると、友人は「久しぶりに、笑い過ぎてお腹痛い」と柔らかな笑顔を見せた。そしてゆっくりと、ワインを飲んだ。
二時間はあっという間だった。
予約したそのお店は、個室での予約は二時間制だった。初めから、一軒だけの約束だったため、名残り惜しいまま、会計を済ませて店を出た。
駅まで歩いている間、友人は一言も話さなかった。
改札口に着いて、やっと口を開いた。
「明日のサッカー、どっちが勝つと思う?」
「もちろん、日本が勝つさ」と僕は言った。
優しく、でもいたずらに…
「まだまだね」と彼女は笑った。
そして、手を降りながら改札を後にした。
実は店の中でも、僕は彼女に一度、「まだまだね」と言われていた。その時の彼女の質問と僕の答えは、ちょっと…内緒にしたいのだけれど…
いずれにしても、今日のサッカーW杯『日本vsエクアドル』の試合終了のホイッスルを聞いて、昨日の改札で、少しづつ小さくなっていく友人の後ろ姿を思い出しながら、僕は…
「まだまだだな…」
自分自身に、そう呟いた。
『みだれ髪』
残りのマスクが心許なくなってきたのを思い出して、近所のドラッグストアに買いに行った。帰り道にふと、聞き覚えのある歌が耳に迷い込んできた。
近くで営業するスナックから、カラオケと女性の声が漏れていた。
昔の歌だけれど、聞き覚えがあった。何だか気になって、店の前の自販機の脇で耳をそばだてていると…鮮明に思い出した。
美空ひばりさんの『みだれ髪』という歌だ。子供の頃、親戚で集まると、歌の上手な叔母が決まってカラオケで唄っていた。
聞いていたのは子供の頃のはずなのに…歌詞まで思い出した。“好きなフレーズ”まであった。
歌は哀しく静かに流れ…知らない女性の漏らす声が、クライマックスに差し掛かかった。そしてしっとりと、それを唄った。
♪春は二重(ふたえ)に 巻いた帯
三重(みえ)に巻いても 余る秋♪
「春に痩せ、秋にはもっと痩せてしまった」…それを、“痩せた”という言葉を使わないまま、さらには背景の辛さや哀しみまで匂わせながら、聞く者に伝える…
愛や夢や自由や希望と、綺麗な単語で埋め尽くされた歌詞とはまた違った、日本語らしさ香る…素晴らしい歌詞だと思う。
と…すっかり、自販機の物陰にいる怪しい近隣住民になってしまった…
いやいや、次は俺が明るく盛り上がる歌を!!…そう陽気に登場したいところだけれど、あくまでも“個人的”には、カラオケはもう少しだけ我慢かな?なんて…
買ったばかりのマスクの箱を握って、家路を急いだ。
秋が過ぎても、僕達にはまだ…冬が続く。
『足音』
明日は都内で人と会う予定がある。先日の小池百合子東京都知事の呼び掛けに呼応して?タートルネックニットを着て出掛けようと思う。都民ではなく、千葉県県民なのだけれど…
環境大臣時代にクールビズを推進した知事が、「首のところを温めると、防寒効果が高いと言われております」と、電力不足にともなう省エネ対策として、呼び掛けている施策なのだけれど…「言われてしまうと、恥ずかしくて、逆に着づらくなった」と嘆く人もいるようだ。
ただ、1カ月ほど前からフランスのマクロン大統領もタートルネックを着用し、ロシアによるウクライナ侵攻で高騰する暖房費の節約を強調するなど、 この“タートルネック政策”は、欧州でも広がりを見せているらしい。
なんて…長々と"首元"の話ばかりしてしまったけれど、今の僕の関心は、実は“足元”にある。
タートルネックニットの前に…「明日は今年初めてブーツを履いていこう」と決めていた。そして、去年買った大好きな エディ・スリマン がデザインしたお気に入りの一足を引っ張り出して、昨晩からせっせと磨いて準備をした。
ただ、ちょっと雲行きが怪しくて…今は天気予報とにらめっこをしている。雨に濡れないことを願って…
いずれにしても、明日はそろそろ…
首元で暖を取る僕がお気に入りの一足で奏でる足音が、新しい季節のそれと重なり始めていることだろう。
もう、冬がそこにある。