Vol.45『枯れない花』
子供の頃唄った歌が口を伝ってしまいそうな程に、色鮮やかなチューリップが花屋の前を賑やかしていた。サクラ色のフラペチーノを手に持つ人の姿が、一人、二人と…向かいのカフェのウィンドウから覗いた。
誘惑を断ち切って横切り、エスカレーターに急いだ。昇りながら、ボタニカル柄のチュニックを着たマネキンが目に入り、やがて反対側のエスカレーターに隠れて消えた。
通い慣れた地元の駅ビルも、すっかり春だった。
季節は巡り、時は流れる…何かが生まれ、何かが消える。変わりゆく毎日を生きる。それが、僕達が受け入れ続けなければならないルールだ。
ただ、時に、ルールを越えて、変わらないものもある。もちろん、永遠ではないにせよ………
………今日の午前中、地元の駅ビルに用事があって、身支度をしようとしていた。
ただ、エアドッグの調子が悪いから見てくれと家族に頼まれ、取扱説明書を渡された。
それを読みながら、再起動したり、フィルターのチェックをしたりしていると、上着のポケットでスマートフォンが震えた。
友人からお礼のメッセージが届いていた。
今日は、彼の誕生日だった。この前後一週間ほどは、家族以外の僕にとって大切な人達の誕生日が続き、少しだけ忙しない。
彼には今朝、ちょっとしたBirthdayメッセージと、LINEギフトで千疋屋のフルーツタルトを贈った。
年齢を重ねると共に、お互いに誕生日当日やその近辺は予定があるので、ここ数年はそんな感じで誕生日当日を祝い、少し落ち着いた後日、一席設けているのだけれど…
その今日のお礼の後に、もう一つメッセージが続いていた。
「言い忘れていて申し訳ないけれど、五月の土曜日、一日空けてくれないか?」と、そうあった。
数年前に閉店した地元の伊勢丹の跡地に出来た商業施設の中に、著名な和食料理人の味と技を受け継ぐという会席料理のお店が、二月にオープンしたのだけれど…
なんでも、彼がそのお店に行ってみようと思い、予約開始日早々にリザーブしようとしたところ、土曜日は五月まで埋まっていたそうで、仕方なく最短の土曜日に席を取ったとのことだった。
そして、その店に行く相手を僕に頼みたいとのことだ。まぁ、その昔、“和の鉄人”と称された有名和食料理人と比べるのはおこがましいのだろうけれど、一応、和食料理人の息子ということで…
地元では話題になっていたし、銀座の本丸に比べればリーズナブルだ。ただ、既に伺ったというSNSの大切なフォロワーさんは、何だか曇りがちなコメントだったけれど…まぁ、ものは試しにということで、行ってみようかと…
それにしても、早回しのようなサイクルに、何だか辟易としてしまう。
その会席料理の店の前は、やはり著名な方がプロデュースしたという肉割烹店が営業していた。雑誌等々でも話題で、やはり予約が取れない店だった。ただ、閉店した後、期間限定で復活し、また閉店した…。その商業施設の入口付近にあるアジアンティーのカフェも一度閉店し、またこの二月に復活オープンした…
もちろん、時代も世界も、街も人も、季節のように巡り、時のように流れ、繰り返しながら、変わりながら、形作られるものなのだろうけれど…なんだか辟易と…
何はともあれ…エアドッグも調子を取り戻し、友人にオーケーの返信を済まそうとした時、ふと、棚の何か赤いものが目に入った。
真っ赤な薔薇のボトルフラワーだった。
枯れない花だ。
ドライ加工をして密閉している分、プリザーブドフラワーより、“枯れない”花だ。10年以上変わらないものも、多々あるようだ。
いつからこの棚に咲いているだろう。この花を買った店はもうない。前述した伊勢丹の花屋で買ったものだ。
ドライ加工され、ボトルに詰められた花を、“枯れない”とは、おかしいのかもしれない。
ただ、購入したデパートも花屋も無くなり、季節が幾度と巡り、幾年の時が流れても、それは咲いている。何より、美しかった…
とりあえず、友人にオーケーのメッセージを送った。
毎年、三月が、春が訪れてすぐに祝う友人の誕生日。形や方法は変われど、それ自体が変わることはない。
摂理や当たり前というルールを越えて、時に、変わらないものがある…
「さぁ…」
そろそろ、支度をして出かけよう。
巡りながらあり続ける、変わりながらあり続ける街に。おそらくそこは、新しい季節に、春に、包まれているだろう。
もちろんそれも、永遠ではない。この真っ赤な薔薇のように。この枯れない花のように。
Vol.044『Till There Was You』
三月の声を聞く前に、とても小さな声を聞いた。小さなそれは、燃えるように赤いけれど、儚い。活き活きと力強いけれど、脆い。
その声が至る所で聞こえ始めて、三月の声になる。それは肩を寄せ合い、日を追うごとに大きくなって、強くなって、やがて、暖かく麗らかな春の歌になる…
………昨日、夕方過ぎに、友人の一人に連絡をした。“ほぼ”一年ぶりのことだ。一年に一度、ほとんど決まった日に連絡をして…ルールではないけれど、ここ数年は、そんなふうに関係を続けている。
22時を少し回った頃、返信があった。僕の家から程近いファミリーレストランにいる…と、そうあった。
「今日か…」と、少しだけ思った。
来てほしいと頼まれたわけでも、催促されたわけでもない。会いたいと言われたわけでもない。そこにいると、そう伝えられただけだ。
ただ、迷わなかった。色々と、予定が狂ってしまうけれど、仕方なかった。
すぐに、支度をした。「今日か…」もう一度だけ、そう思った。
出がけに、コートを羽織り、ストールを巻いていると、ふと、書院甲板の上の鉢植えが目に入った。
「あっ…」
思わず、声が漏れた。
一つ、蕾があった…赤かった…
用意していたけれど、迷っていたものを、コートのポケットに押し込んで、急いで家を出た。
伝えたかった。すぐに伝えたかった。
「蕾がついたよ」と、彼女に伝えたかった…
………あと数日で三月が訪れるなんて、絵空事のように、夜道はどこまでも冷えていた。白い息が、消える間もなく漂い続け、僕の顔を微かに湿らせた。
それでも、どこか胸が踊り、僅かばかりか寒さを和らげた。心なしか、足が弾んだ。信号待ちがもどかしかった。
並行して停車する黒いSUVから、小さく音楽が漏れていた。この寒空の下、少しだけカーウィンドウが開いていた。
ビートルズが『Till There Was You』を歌っていた…
信号が変わると、左折する車と一緒に、音楽は消えた。
Till There Was You…
君と出会うまでは…
詳しく知っている歌ではないけれど、歌詞にはそれらしい言葉はなさそうだけれど…どことなく、春の歌のような気がした。何故だか、そんな気がした。
あと数日で、三月が訪れる…。
誰もいない横断歩道を、小走りに渡った。
Vol.043『空の、入口と出口』
昨日より丸みを帯びた弓形が、今夜の月を少しだけ柔らかく見せた。ただ、僕が見たかったのは月ではない。夜空の、この夜空の先が見たかった。もちろん、見えやしない。僕に見ることができるのは、ほんの僅か先のそれだけだ。
空には、入口も出口もない。あるはずもない。ただ仮に、もしも仮に、あったとしても、僕には見えやしない。
仕方なく、さっきまで電子版で見ていた小説の、あの一行を探した。ただ、どれだけスクロールしても、もう見つからなかった…
………今朝は、いつもより少し、目覚めるのが遅かった。
昨日は夕方過ぎから雨が降った。飲みに出かけずに、夜は、録画していたニュースを見た後、ウォッカソーダを何杯か飲んで、僕にしては、かなり早目にベッドに入った。なかなか寝付けなかったけれど、何もする気がせずに、ただ、目を閉じていた。どこかで猫が鳴いていた。どうしたんだろう?少し離れたところではあったけれど、哀しそうな鳴き声が、何度か聞こえた。雨音はもう、聞こえなかった。
気が付くと、猫の代わりに、鳥の陽気な鳴き声が聞こえた。繰り返し、聞こえた。朝だった。いつもの土曜日よりも、2時間近く、遅い目覚めだった。
コーヒーを飲んで、トマトのフルーツジュレを食べた。余計に寝たせいか、頭も身体も、妙にすっきりしていた。
コートを羽織って、平日に溜めてしまった用事を片付けに出掛けた。
晴れやかという天気でもなかったけれど、風もそれほど強くなく、思ったよりも寒くなかった。問題なく用事を済ませていき、最後にクリーニング屋でニットとシャツを出してから、蕎麦屋に寄って、せいろを食べた。なんだろう?いつもより、蕎麦粉の香りが少ない気がした。
帰りがけ、家の近くを少しだけ探したけれど、何処にも、哀しそうな猫はいなかった。
家に戻ってから、Fire TVを点けて、侍ジャパンの強化試合を観ていると、段々と目が痒くて堪らなくなってきた。
野球が終わる頃には、淹れたてのコーヒーから、まるで香りを感じなくなっていた。
ニュースに変えると、渋谷のハチ公前広場でのデモ集会の様子が流れた。聴衆から拍手が起きていた。
Fire TVを消した。
先日、気まぐれで買った電子版の小説の続きを、香りのしないコーヒーを飲みながら、スマートフォンで読んだ。本棚を探れば、同じ小説のハードカバーもあるし、文庫本に至ってはおそらく数冊ある。ただ、スマートフォンで続きを読んだ。
読み始めてすぐに、思い直して、もう一度最初から読み返した。何度も読んだはずなのに、すぐに、ある一行でスクリーンを撫でる指先が止まった。
「物事には必ず入口と出口がなくてはならない。」…中指の隣に、そうあった。
くしゃみが一つ出た。鼻はもう何の役にも立たず、擦り続けた目の痒みは、ほとんど痛みに近かった。
再びコートを羽織り、マスクをして、伊達メガネをかけた。ドラッグストアに向かった。
日はすっかり暮れていた。小さな風が、冬の夜らしい寒さを帯びて、無防備な耳先をいじめた。
目薬と花粉症の薬を買って、ドラッグストアを出ると、月が目に入った。擦り過ぎた目でも、伊達メガネ越しでも、空が澄んでいるような気がした。
一年前の昨日、この空の先を、この空の向こうを想った。この空の先で、この空の向こうで起きてしまったことに震えた。
入口でも見つけようとしたのか…何の意味もないのに、ボルシチのレシピを見て、それを作ろうなんて馬鹿なことを考えた。ビーツすら見つけられなかった。
昨日は、ただ、ウォッカを飲むだけだった。相変わらずだ。
一年経った今も、この空に入口はない。この空の先に出口はない。
物事には必ず…
もう一度、小さな風に耳先がいじめられた。昨日の猫なのか、誰なのか、それが哀しい鳴き声に聞こえた。
くしゃみが出た。目を擦るのを必死で堪えた。涙が滲んだ。
Vol.042『時計じかけの…』
昼下がりに、ビルの合間から漏れた日は暖かく、2月を忘れさせた。ただ、3時間後に、すっかり日が暮れた銀座を歩いていると、寂しかったとでも言いたげに、冬の寒さがまとわりついて離れなかった。
7丁目へと急いだ…
……先週の休日、有楽町にいた。だいぶ前から友人に「買い物に付き合ってくれ」と…かなり雑に誘われていた。
詳細も分からないまま…15時過ぎには、マリオンにいた。
「なぁ、前にマックのCMでキムタクが着ていたスタジャン見ていいか?」と、阪急メンズのSAINT LAURENTを出て、唐突に友人が言った。CELINEのテディジャケットのことだった。
セリーヌに入り、友人はブラックのそれを手に取って、おもむろに鏡の前で合わせた。
店員が「ご試着もできますよ」と言った。
友人は「大丈夫です」と首を振り、テディジャケットを元に戻した。そして店内をゆっくりと一周した。
「お前はいいのか?」
僕は頷いた。そして店を出た。接客してくれた店員は、ナロータイをしていた。そう言えば、アンソニー・ヴァカレロなのに…サンローランの店員もナロータイをしていた。なんだか嬉しかった。
「一生、着れそうにないな」と、エスカレーターで友人が笑った。
「なぁ、買い物に付き合えって、アレのことか?」
「あれなんだよ…最近の木村拓哉のイメージ」
「?」
「これから、『レジェバタ』観るからさ」と友人が言った。
「『レジェバタ』?」
というわけで…友人の“しかけ”に騙され、木村拓哉さん主演の『THE LEGEND & BUTTERFLY』という映画を、突然、観ることになった。
あくまで彼にとってはということだけれど、一人でゆっくりと観たい映画でもなく、女性とデートがてらに観たい映画でもなく、でも、観てみたいという映画の場合…僕の出番らしい。『ONE PIECE』もそうだった。
前回『SLAM DUNK』を、僕が体調不良でドタキャンした事を不可解に思ったらしく、今回は直前まで騙したそうだ。本当だったのだけれど…
「なぁ、東映70周年記念作品を、なんで松竹の丸の内ピカデリーで観るんだよ」と僕が言うと
「そういう時代なんだ」と彼が言った。そして、「ドルビーシネマだから、予約したチケットは2,500円だ」と言った。
まるで、ついていけなかった。
ただ、ある映画を観てから、自分の意志で映画館に足を運ぶことが少なくなった僕にとっては、映画館に誘い出してくれるだけで、有り難かった…
売店には、エールビールしか置いていなかった。仕方なく、それを買った。
それから、2時間48分…スクリーンを見つめ、スピーカーに耳を澄ました。
映画館を出るとすっかり日が暮れていた。友人が予約してくれていた、銀座7丁目のバスク料理の店へと向かった…
……口径の広いグラスに、店員が高い位置から注いで泡立てたチャコリを、友人も僕も、ゆっくりと飲んだ。そして、オリーブのピンチョスを口に入れた。
友人はいつもより喋らなかった。映画の感想も言わなかったし、僕に聞くこともなかった。
ただ、ピルピルという干し鱈の郷土料理を食べてしばらくすると、静かに口を開いた。
「また、劇場でたくさん映画を観たいとは思わないのか?」
「分からないな」と僕は言った。「ただ、ドルビーシネマには驚いた」
友人が頷いた。
「俺がバイトをしてた頃は、光学アナログ式のドルビーステレオから、ドルビー・スペクトラル・レコーディング方式が主流になってどうとか騒いでたぐらいだから…ドルビーアトモスもドルビービジョンも、別次元だよ」
「あれから何年だ?」
「それも、分からないな」と僕が笑うと、友人も笑った。
そしてチャコリを飲み干して、言った。
「よし、地元に戻って『レジェバタ』とセリーヌのスタジャンについて語ろう」…
……映画『THE LEGEND & BUTTERFLY』の感想については、観た人と、これから観る人に委ねたい。
いずれにしても、東映が70周年を迎えた。
一方で、東映創業から20年後に、ドルビーラボラトリーズ社の音響技術が、初めて映画に採用された。作品は、スタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』だった。
最新鋭のドルビー社の技術がどんな“しかけ”か、僕には分からない…友人が次にどんな“しかけ”で、僕を映画に誘い出すかも分からない…ただ、これからも楽しみだ。
とりあえず、我が家の小さなスクリーンと頼りないスピーカーで、久しぶりにキューブリックでも観てみよう。
エールビールではなく、ラガービールを片手に。
『FRAGILE』fin.
(『FRAGILE』Vol.2からの続き…)
二月の夜空と戯れるように、小さな風が吹いては消えた。それを少し遅れて真似るように、窓が時折り、微かな音を立てた。
部屋で一人、僕はもう何も考えられなくなっていた。頭が自分のものではないように痛んだ。
涙が溢れそうになった。泣きたくてたまらなかった。でも、泣かなかった。絶対に泣かなかった。
どうしようもなくなって、彼女からもらったチョコレートの包みを開けた。
箱の中で、赤に覆われた大きなハートの周りを、ピンクに覆われた小さなハートが囲んでいた。
手紙が添えられていた。
何度も読んだ。何度も何度も読んだ。この世界に、こんなに美しく、こんなに素敵な言葉があったなんて…そう驚いた。
そして、僕にとっては、見たこともない輝きを放つピンク色を、慎重に口に運んだ。
すぐに溶けた。甘かった。どこまでも、甘かった。
そして、しょっぱかった。苦いでも、ホロ苦いでもなく、少ししょっぱかった。何故だかそんな気がした。
確かに、また涙が溢れそうになったけれど、必死に堪えていた。泣いていない。そして、口の中を切ったわけでもない。
それでも、そのハートは、どこまでも甘く、そして少ししょっぱい…そんな気がした。
今度は、大きな赤いハートを一口かじった。やはり、どこまでも甘く、何故かしょっぱく感じた。
それが口に溶け、胸に、体に沁みるのを感じながら、僕は目の前にあった彼女の笑顔を思い返した。
もう、こらえきれなかった。涙がゆっくりと頬を伝った…
……と、昔々そんなことがあった。ただ、何年経っても、その日のことを明確に覚えている。そして、2月14日…バレンタインデーの度に、何故だか必ず、思い出してしまう。甘く、しょっぱい思い出として。
彼女とは、中学を卒業して以来、一度も会っていない。一度だけ偶然に、地元のレンタルDVD屋さんで見かけたことがあるだけだ。ただ、彼女は必ず幸せな日々を送っていることだろう。そういう女の子…いや、そういう人だった。
いずれにしても、まだ、FRAGILE(=取扱い注意)というステッカーが、僕のあちこちに貼られていた頃の話だ…
……さてさて、昨日は、春の陽気だった。
4月中旬から5月上旬の気温だったそうで、東京でも20℃を超えたところもあったそうだ。そして、九州や四国では、春一番が吹いたとのことだ。
今日のように、また、寒さが訪れるけれど、段々と春が近付いている。
春…終わりと始まりの季節だ。
新しい季節が、そこに吹く風が、少しづつ何かを消し去っていく。そして、何かを運んで来る。ただ、無くならないものもある…
戴き物のチョコレートを一つ口に入れた。すぐに甘みが広がり、すぐに溶けて無くなった。
でも、その甘さが何かに変わって…僕の何処かに溶け込んだ。僕の何処かに沁み込んだ。
その取り扱い方を、僕は知らない。ただそれは、僕の何処かにあり続けるだろう。