Vol.47『100と1つ』Episode.2
大きな音ではない。ひょっとしたら、聞こえていないのかもしれない。でも…左腕の上で、左胸のような音で、腕時計の針が時を刻んでいるのが、この耳に届く…そんな気がしてならなかった。
店内にはまだ、数名のお客さんがいた。広い店内の近場の席に固まっていた。
若いサラリーマンらしき男性は、二枚重ねのハンバーグとライスを一心不乱に、まるで表情を変えずに食べていた。30歳前後とおぼしき女性は、ティーカップを持ったきり、飲むこともないまま、難しそうな顔でノートパソコンを睨んでいた。大学生ぐらいの男性二人と女性一人が、一言も喋らずに、三人それぞれに真剣な顔つきでスマートフォンを見つめ、スクリーンの上で滑らかに指を動かしていた。テーブルの上には、氷が僅かに残った空のグラスがズラリと並んでいた。小学校に上がったばかりぐらいの女の子が、母親らしき女性にもたれながら、寝息を立てていた。女性は何も食べずに、赤ワインを飲んでいた。半分ほど残ったミートソーススパゲティが女の子の前に置かれていた。
誰の目にも、誰も映っていないような気がした…
「どうしたの?」と、彼女が言った。
僕達は、三杯目のレモンサワーを飲んでいた。
「なんでもないよ」と、僕は首を振った。
「ねぇ…」と彼女は言った。「家からこのお店近いんでしょ?」
「まぁ、遠くはないけど」と僕は頷いた。
「でも、このお店に来たことないでしょ?」
「うん、初めてだね」
「やっぱり」と彼女は笑った。「ねぇ、ひょっとしてファミレスも初めて?」
「まさか。昔は、特に学生時代はよく入ったよ」と僕は言った。「ただ、お酒を飲むのは初めてかもしれない」
「へぇ」と言って、彼女はレモンサワーを飲んだ。「まずい?」
「いや、悪くないよ」
彼女はポテトフライにケチャップとマヨネーズを付けて口に入れた。それを飲み込み、もう一度レモンサワーを飲んで、言った。
「そういう時は、『悪くない』じゃなくて、『美味しい』って言うのよ。特に、誰かと一緒に食べている時はね。」
「ごめん」と僕は素直に謝った。そして「美味しいよ」と言った。彼女の言う通りだった。僕がどうかしている。恥ずかしかった。
「うん。食べよ」と、彼女は笑った。
僕はピザを食べて、彼女は唐揚げをほうばった。本当に美味しかった。
「あっ…」唐揚げを慌てて飲み込みながら、「100と1つとか言って、まだ、一つも貰っていないんだけど」と彼女が言った。
「あっ…そうだね。ごめん。」と僕が言った。
彼女は、「ううん」と言うように首を振りながら、「でもそれって、なんて言っていたっけ?小説家の話?」
「うん」と僕は頷いた。「何だかある小説家に色々と質問をぶつけてみるみたいな内容の本で、『「私のどこが好きか100言って」と彼女に言われたら?』という質問に対して、その小説家が『「よしきた!」と、101並べるのが男です。』なんて答えていて…確か、そんな感じだったと思う」と僕は言った。「どうしてかな?僕には、その答えがスッと入ってきたんだ。そんなふうに答えることができたら、その女の子のことも、とても可愛く思えたりするんだろうなって…妙に気に入ってしまって、それで真似しているんだけれど…」
「うん。いいね…」と彼女は言った。「でもあの日、なんでいきなり私に、そう言ってくれたの?私、そんなに『ちょうだい、ちょうだい』って、欲しがってそうだった?」
僕は首を振った。そして、残りのレモンサワーを飲み干した。
「君は、ひどく落ち込んでいたし、何だか自分を卑下していて、何より、自分の好きなところなんて一つもないって…そんな顔をしていたから」と僕は言った。「だから、僕が君の好きなところを100、いや、101言うよって伝えたら…君が笑ってくれて…」
「うん。嬉しかった。」と彼女は笑顔を見せた。「何しろ、人生最悪のバースデー・イブだったから…」
「まぁ、初対面で101は、実際はかなり無理があっただろうけど」と、僕が笑うと、彼女も笑った。
僕はタブレットで、レモンサワーのおかわりを二つ頼んだ。
あの日のあの言葉は、無理があるにせよ、嘘ではなかった。そんな予感がした。彼女の好きなところを、いっぱい見つけられそうな予感がした。そういう時間を長く過ごせたら…そう思った。
「ごめんなさい」と彼女が言った。「私、もう行かなきゃ」
やっぱり…左腕の上で、左胸のような音がした。
……次回のVol.48『100と1つ』Episode.3に続きます。