Vol.043『空の、入口と出口』
昨日より丸みを帯びた弓形が、今夜の月を少しだけ柔らかく見せた。ただ、僕が見たかったのは月ではない。夜空の、この夜空の先が見たかった。もちろん、見えやしない。僕に見ることができるのは、ほんの僅か先のそれだけだ。
空には、入口も出口もない。あるはずもない。ただ仮に、もしも仮に、あったとしても、僕には見えやしない。
仕方なく、さっきまで電子版で見ていた小説の、あの一行を探した。ただ、どれだけスクロールしても、もう見つからなかった…
………今朝は、いつもより少し、目覚めるのが遅かった。
昨日は夕方過ぎから雨が降った。飲みに出かけずに、夜は、録画していたニュースを見た後、ウォッカソーダを何杯か飲んで、僕にしては、かなり早目にベッドに入った。なかなか寝付けなかったけれど、何もする気がせずに、ただ、目を閉じていた。どこかで猫が鳴いていた。どうしたんだろう?少し離れたところではあったけれど、哀しそうな鳴き声が、何度か聞こえた。雨音はもう、聞こえなかった。
気が付くと、猫の代わりに、鳥の陽気な鳴き声が聞こえた。繰り返し、聞こえた。朝だった。いつもの土曜日よりも、2時間近く、遅い目覚めだった。
コーヒーを飲んで、トマトのフルーツジュレを食べた。余計に寝たせいか、頭も身体も、妙にすっきりしていた。
コートを羽織って、平日に溜めてしまった用事を片付けに出掛けた。
晴れやかという天気でもなかったけれど、風もそれほど強くなく、思ったよりも寒くなかった。問題なく用事を済ませていき、最後にクリーニング屋でニットとシャツを出してから、蕎麦屋に寄って、せいろを食べた。なんだろう?いつもより、蕎麦粉の香りが少ない気がした。
帰りがけ、家の近くを少しだけ探したけれど、何処にも、哀しそうな猫はいなかった。
家に戻ってから、Fire TVを点けて、侍ジャパンの強化試合を観ていると、段々と目が痒くて堪らなくなってきた。
野球が終わる頃には、淹れたてのコーヒーから、まるで香りを感じなくなっていた。
ニュースに変えると、渋谷のハチ公前広場でのデモ集会の様子が流れた。聴衆から拍手が起きていた。
Fire TVを消した。
先日、気まぐれで買った電子版の小説の続きを、香りのしないコーヒーを飲みながら、スマートフォンで読んだ。本棚を探れば、同じ小説のハードカバーもあるし、文庫本に至ってはおそらく数冊ある。ただ、スマートフォンで続きを読んだ。
読み始めてすぐに、思い直して、もう一度最初から読み返した。何度も読んだはずなのに、すぐに、ある一行でスクリーンを撫でる指先が止まった。
「物事には必ず入口と出口がなくてはならない。」…中指の隣に、そうあった。
くしゃみが一つ出た。鼻はもう何の役にも立たず、擦り続けた目の痒みは、ほとんど痛みに近かった。
再びコートを羽織り、マスクをして、伊達メガネをかけた。ドラッグストアに向かった。
日はすっかり暮れていた。小さな風が、冬の夜らしい寒さを帯びて、無防備な耳先をいじめた。
目薬と花粉症の薬を買って、ドラッグストアを出ると、月が目に入った。擦り過ぎた目でも、伊達メガネ越しでも、空が澄んでいるような気がした。
一年前の昨日、この空の先を、この空の向こうを想った。この空の先で、この空の向こうで起きてしまったことに震えた。
入口でも見つけようとしたのか…何の意味もないのに、ボルシチのレシピを見て、それを作ろうなんて馬鹿なことを考えた。ビーツすら見つけられなかった。
昨日は、ただ、ウォッカを飲むだけだった。相変わらずだ。
一年経った今も、この空に入口はない。この空の先に出口はない。
物事には必ず…
もう一度、小さな風に耳先がいじめられた。昨日の猫なのか、誰なのか、それが哀しい鳴き声に聞こえた。
くしゃみが出た。目を擦るのを必死で堪えた。涙が滲んだ。