Vol.044『Till There Was You』
三月の声を聞く前に、とても小さな声を聞いた。小さなそれは、燃えるように赤いけれど、儚い。活き活きと力強いけれど、脆い。
その声が至る所で聞こえ始めて、三月の声になる。それは肩を寄せ合い、日を追うごとに大きくなって、強くなって、やがて、暖かく麗らかな春の歌になる…
………昨日、夕方過ぎに、友人の一人に連絡をした。“ほぼ”一年ぶりのことだ。一年に一度、ほとんど決まった日に連絡をして…ルールではないけれど、ここ数年は、そんなふうに関係を続けている。
22時を少し回った頃、返信があった。僕の家から程近いファミリーレストランにいる…と、そうあった。
「今日か…」と、少しだけ思った。
来てほしいと頼まれたわけでも、催促されたわけでもない。会いたいと言われたわけでもない。そこにいると、そう伝えられただけだ。
ただ、迷わなかった。色々と、予定が狂ってしまうけれど、仕方なかった。
すぐに、支度をした。「今日か…」もう一度だけ、そう思った。
出がけに、コートを羽織り、ストールを巻いていると、ふと、書院甲板の上の鉢植えが目に入った。
「あっ…」
思わず、声が漏れた。
一つ、蕾があった…赤かった…
用意していたけれど、迷っていたものを、コートのポケットに押し込んで、急いで家を出た。
伝えたかった。すぐに伝えたかった。
「蕾がついたよ」と、彼女に伝えたかった…
………あと数日で三月が訪れるなんて、絵空事のように、夜道はどこまでも冷えていた。白い息が、消える間もなく漂い続け、僕の顔を微かに湿らせた。
それでも、どこか胸が踊り、僅かばかりか寒さを和らげた。心なしか、足が弾んだ。信号待ちがもどかしかった。
並行して停車する黒いSUVから、小さく音楽が漏れていた。この寒空の下、少しだけカーウィンドウが開いていた。
ビートルズが『Till There Was You』を歌っていた…
信号が変わると、左折する車と一緒に、音楽は消えた。
Till There Was You…
君と出会うまでは…
詳しく知っている歌ではないけれど、歌詞にはそれらしい言葉はなさそうだけれど…どことなく、春の歌のような気がした。何故だか、そんな気がした。
あと数日で、三月が訪れる…。
誰もいない横断歩道を、小走りに渡った。