『椅子』
誰もいなかった。一人になっていた。ただ、彼女が席を立ってから、その後、この場所に誰がいたのか、どんな人達がいたのか、まるで思い出せなかった。そもそもの初めから、一人だったのかもしれない…そんな気がしてきた。
閉店時間には程遠かった。僕の席からは、外は見れなかったけれど、まだ日が落ちる時間でもない。
普通なら一番混み合うはずの、休日の、夕方前のコーヒーショップに一人…お店には申し訳ないけれど、悪くない。
もう一度見渡してみた。やっぱり誰もいない。
溶けた氷で薄まったアイスコーヒーと僕、傍らに置かれたコート、ストール、クラッチバッグ、そしてDelReYのチョコレート…他には何もない。
腕時計を見た。ホッとした。何度見ても、世界は止まらずに、動いていた。そして、座るべき椅子はいくらでもあった…
……昼下がりのコーヒーショップは混雑していて、椅子取りゲームのちょっとした大会のように、忙しなく、人が立ったり座ったりしていた。
その間をすり抜けながら、小脇にクラッチバッグを抱え、片手でコーヒーの乗ったトレーを持って歩くのは、なかなか苦労した。
そんな僕の様子をずっと見ていたらしく、一番端の席で、彼女が笑っていた。
席の前に着き、コートを脱いで、ストールを取って座ると、「お疲れ様」と彼女が言った。そして「珍しい…アイスコーヒー?」と驚いた。
「うん。暖かいし、何だか喉が乾いて」と僕が言うと、ただ、黙って頷いた。彼女は、紅茶を飲んでいた。
ストローで、アイスコーヒーを一口飲んでから、頼まれていた本と、彼女が仕事で使わせて欲しいという、ちょっとした資料のようなものを手渡した。特別なことではない。もう五、六年ほど、毎年この時期に彼女に会って、同じことをしている。
「本当に毎年ありがとう」と、彼女は頭を深々と下げた。そして「はい、いつもの」と、紙袋を僕へと手渡した。“いつもの”ちょっと早い義理チョコ兼お礼だった。
「こちらこそ、毎年ありがとう」
「あっ、そうそう…」
「わかっているよ」と僕が言った。「ホワイトデーのお返しはいらないんだよね」
「うん、いらない」と、彼女が笑った。
「でも、こんな高価な義理チョコを、毎年申し訳ないよ」
「この本と資料に助けられているし、それに…」
「それに?」
「誰が、義理チョコなんて言った?」と、今度はいたずらに笑った。
僕も笑って、コートの傍らにチョコレートを置いた。
「ねぇ、エル君に会ってる?」と彼女が聞いた。エル君とは、僕の友人のニックネームだ。
「会っているよ。少なくとも月に二、三回は会って、飲んでいるよ」
「そんなに?」
「うん。年末は、大阪旅行までしたよ」
「二人で?」
「そう、二人で」と言って、僕が笑うと、彼女も顔をクシャクシャにして笑った。
「今度私も、二人の席にお邪魔していいかな」
「もちろん、大歓迎さ」
「ありがとう」そう言うと、彼女は、本と資料をバッグにしまった。
「まだ、いる?」
「うん、もう少しだけ」
「そろそろ行くね」そう彼女が言って、僕はただ頷いた。
オーバーサイズの黒いチェスターコートを羽織って、鮮やかな黄色いマフラーを巻くと、彼女は一度手を振り、バッグと紅茶のトレーを持って、席を後にした。僕が友人と会う時、連絡してとは、一言も口にしなかった。
おそらく僕が、友人に彼女との今日のやり取りを伝えることはない。彼女もそう思っているだろう。
僕達は日に日に、伝えるべきか否かわからないことに、口をつぐむのが上手になっていく。その代わりに、大切なことの伝え方を時に忘れ、いずれ見失ってしまう。
何だか、帰る気分にならなかった。アイスコーヒーを飲んだ。なんの味もしない気がした。スマートフォンで少しだけSNSを覗いた。それから、電子書籍の適当な小説を買って読んだ。
少しづつ、人が減っていった。椅子取りゲームが落ち着いてきたようだ。
僕達は、そんなゲームを何度も何度も繰り返しているのかもしれない。
柔らかい椅子を求め、見つけて、座っては立ち、無くなり、また見つけると、誰かに奪われ、次を求めて彷徨う…同じ椅子にもう一度座れることは…
ただ時に、小さくとも、固くとも、一つの椅子に大切な誰かと座れることもある。もう、立ちたくないとそんな想いになることもある。
そんな想いを求めて、ゲームに飛び込む。そして世界は、止まらずに動き続ける。
ただ、忘れたくはない。ゲームチェンジもゲームオーバーも、決めるのは自分自身だ。
腕時計を見た。時間は十分にある。まだもう少し、座っていよう。
アイスコーヒーの氷が、すっかり溶けて無くなっていた。
『白』
真っ白なスニーカーを素足に履いた。ちょっとした事情で、知人にプレゼントしてもらったまま、どうすることもできずにいたものだ。
いわゆるモードという感じのスニーカーでもなかった。気に入らないわけではないけれど「今日はこれじゃ、出かけられないかな」と僕は笑った。
僕は黒い服を着ていた。コート、ジャケット、ニット、パンツ…全て黒だった。
「うん…」と一つ頷いた後、慎重に言葉を選ぶように、彼女は言った。
「初めて会う人みたい」
その声こそ、何よりも白かった。
あれから、何年経つだろう。その日も、朝から雪が降っていた…
…昨日の朝は、この街にも雪が降っていた。ゴアテックスのサイドゴアブーツやスニーカーと、色々迷ったけれど、結局、防水加工が施されただけで、いつもとあまり代わり映えのしない黒いレザーシューズを履いて出掛けた。
そんなに強く降ってはいなかった。あまり、積もりそうでもなかった。
ただ、電車の窓から覗く家々の屋根は、薄っすらと積もった白色が、既にその彩りを覆い、それだけで初めて見る街のような気がした。ささやかな雪化粧だった。
僕の前に座る黒い学ラン姿で黒いマスクをした高校生は、耳の白いAirPodsと足元の白いスニーカーが映えていた。隣りで眠るグレージュとブラウンのバイカラーのマスクをした女性が目を開きくしゃみをした。そしてまた目を閉じた。
思い返すと、マスクの着用が日常化し、マスク不足の喧騒が収まった頃は、どうせならと、不織布マスクの上に、好きなブランドの布マスクを重ねたり、変わったデザインやパターンのものをしたりと…色々なマスク姿を楽しんだ。それが段々とシンプルになり、最近は時々、ただの白いマスクを好んで着けたりしている。今もそうだ。
それにしても…マスク姿になって久しい。
そう言えば先日、仕事の都合で時々顔を合わせる女性の前で、何かの拍子にマスクを顎までずらした時、“初めて会う”ならぬ、「知らない人がいる」と言われた。僕もマスクを外した彼女を知らない。その日は、彼女も僕も白いマスクをしていた。
この数年の間に出会った人の中には、マスク姿しか見たことがなく、その素顔を知らない人も多くいる。晴れた日を知らない、雪化粧姿の景色のように。
電車を降りて、雪の中、通り慣れた道を歩いた。いつもの横断歩道で信号待ちをしていると、道の傍らに花が咲いていた。こんなところに花が咲いているなんて…知らなかった。
顔の半分を覆うマスクよりも、この街を微かに覆うような雪よりも、それは白かった。
初めて歩く街のような気がした…
…結局昨日は、雪が雨に変わり、積もらなかった。今日の日中は日が射し暖かった。明日はもっと気温が上がり、桜が咲く頃の陽気になるらしい。
桜が咲く頃…その前に、この数年変わらなかった僕達の姿に、変化が訪れるかもしれない。
天気予報と一緒に見たニュースによれば、来月前半にはマスクの着用ルールが緩和され、屋内・屋外を問わず「個人の判断に委ねる」とする方向で、政府が調整に入ったそうだ。
寒い地域でも白い雪化粧が溶け始める頃、僕は白い不織布を外し、何度も顔を見合わせた人達と、再び、“初めての出会い”をするのかもしれない。
おそらくは、白いスニーカーではなく、代わり映えのしない黒い靴を履いているだろう。
ただせっかくなら、真っ白な心持ちで会えたらいい。あの花のように白い…あの声のように白い…そんな心持ちで。
『満月と「くるみ」』
ふと空を見上げると、雲に覆われた満月が、二月の夜空でおぼろげに身を焦がしていた。伊達メガネが少しだけくもった。改めて辺りを見回すと、さすがに週初めのこの時間は、人通りもまばらだった。マスクを少し下げると、風が静かに鼻先を冷やした…
今週の月曜日、店が閉店の時間を迎え、暖簾を下げた頃だった。携帯電話が震えた。
僕はリビングで一人、閉店に寄せた拙い文章を書くのに、小さなスクリーンを撫でているところだった。
友人からのメッセージだった。
「ママの店で、一人で飲んでいるんだ。悪いけど、来てくれないか?」
そんなはずはないのだけれど、文字がバラバラと崩れ落ちて、消えてしまいそうな気がした。
鏡に目をやると、まだ月曜日だというのに、酷い顔をしていた。
滅多にかぶらない帽子を目深にし、伊達メガネをかけた。意を決して、メルトンのトレンチを羽織った。
仕方なかった。
コートの襟を立てて、店へ向かった…
革張りの重いドアを開けると、いつも通りの少し低い、でも柔らかな声で、「いらっしゃい」とママが言った。
友人は、L字のカウンターの角の席でグラスを握りしめていた。反対の端の席に、一組だけお客さんがいた。三十代半ばぐらいの男性と、少し歳上ぐらいの女性客だった。男性はスーツ姿で、女性は飾り気のない黒いタートルニットに、くるぶし丈のスカートを履いていた。黒いヒールの裏に赤色が覗いた。
「悪いな」と友人が言った。
「構わないよ」
ママが、知多の水割りを僕の前に静かに置いて、ゆっくりと一つ頷いた。
それっきり、彼は何も喋らなかった。僕も口を開かなかった。ママの店で救われたような気がした。
この店は、40代半ばのママが一人で切り盛りしている。こじんまりとした店だ。スナック?ラウンジ?…呼称は分からないけれど、よく行くダイニングバーのマスターに紹介されて以来、友人と一軒、二軒と飲み歩いた後、最後に立ち寄る店だ。ボトルをキープしている。
気分良く酔いが回っている時も、あまり上手く酔えなかったり、センシティブな話をしたい時にも、いつもその時々に合わせた接し方をママがしてくれる。他のお客さんがいても、少し騒がしくても…なんだろう?居心地の良し悪しを意識しないまま、気付くと良い気分で、いつも店を後にしている…
僕達の前に、何杯新しい水割りが置かれただろう。彼はただ黙っていた。僕は何故だか、店に来る途中に見た月のことをぼんやりと思い出していた。
ママが、空になった知多のボトルを掲げて見せた。僕が「一本入れて」と頼んだ。
新しいボトルで作った水割りが、改めて僕達二人の前に置かれた。
「昨日、会えなかったんだ」と、彼が口を開いた。
「そうか」と僕が言った。
「昨日は一人で、食べたくもない昼飯を食べて、飲みたくもないビールを飲んだ」
「次は…来月の第一日曜日?」
「あぁ」と彼は言った。「あと一月、どうやって過ごしたらいい?」
僕が何も答えられずにいると、ふいに店内にメロディが流れ出した。
ママが申し訳ないというように、目配せをした。僕は笑顔で頷いた。
スーツ姿の男性がカラオケを歌い始めた。Mr.Childrenの「くるみ」だった。
「カラオケか…しばらく歌ってないな」と彼が言った。
「どうだい、一曲?」
「まさか」と、彼が笑った。
「なぁ…」と、僕が言った。
「?」
「今夜は、満月だぜ。」
「そうか」と彼が言った。「次の次辺りの満月を、楽しみにするよ」
男性が「くるみ」を歌い上げた。友人も僕も拍手をした。男性も女性も恥ずかしそうに会釈をした。ママが小さく笑った。
「行こうか」と彼が言った。
これから、重い革張りの扉を開けて、おぼろげな満月の下、二月の夜道を彼と並んで歩く。
仕方ない。悪くない。
「くるみ」でも…歌でも…口ずさもうか?
『黒紅色を待つ』
まだ、風の冷たい春の日、“平凡”なそれに出逢った。僕は一目惚れをし、たった千円札一枚で、それを連れて帰った。来月で、あれから一年が経つ。今はまだ、それには蕾の一つすらない…
去年の3月に、確かTwitterでも少しだけ書いたのだけれど、近所のホームセンターに何かを買いに行った帰りがけに、たまたま、小さな木瓜の鉢植えを見かけた。
黒紅色の花が、少しだけ咲いていた。可憐で、でも何処か力強くて…すぐに心を奪われた。元々、好きな花でもあった。
迷わず手に取って、レジへと引き返した。外でも買えたようだけれど、よく分からずに、店の中で買った。値段を見るのも忘れていたけれど、990円だった。
去年の春は、この花に楽しませてもらった。そして、再び黒紅色が花開くことを心待ちにしている。
この花が咲くのは、順調にいって3月の初旬ぐらいだろうから、まだ2月になったばかりで、気が早いのだけれど…
最近、大河ドラマや映画の番宣で、木瓜を家紋に用いていた織田信長の話題を聞く機会が多かったり…
『KENZO』のアーティスティック・ディレクターにNIGO氏が着任して以来、アイコニックなモチーフとして登場している「ケンゾー ボケフラワー」を、2023-24AWコレクションの画像でも多く見かけたりして…
なんだか、我が家の鉢植えにも、早くその花弁を見たくて…ソワソワしている。
いずれにしても、僕は何故だか、この木瓜という花がとても好きだ。去年の出逢いに感謝している。
この花に出会った頃は、毎日がどこか彩りに欠けていた。そして重苦しい空気が日常を支配していた。
あの時、一週間ほど前には、海の向こうで、あの侵攻が始まった。僕の暮らす街には“まん防”なる措置が施され、店は休業中だった。
そんな折に、出逢った花だった。
この木瓜という花には、よく耳にする「先駆者」や「熱情」、或いは「妖精の輝き」といった花言葉の他に、「平凡」というそれがあることも、その時に知った。
あれから一年…あの侵攻とそれに対する抗戦は続いている。件の感染症はまだ、日常を蝕んでいる…
去年の春にも筆にした。そして今年も春を前に、同じ想いを抱いている。
小さな黒紅色の花がもたらすものは、確かに『平凡な幸せ』なのだろう。
ただ、今こそ噛み締めるべきなのかもしれない。
その尊さを、その愛おしさを、そして、その儚さを…
風の冷たい春の日に出逢い、千円札一枚で手にした一鉢の花。それは偶然ではなく、必然だったのかもしれない。
大切にしたい。
小さな赤紅色が花開くのを、本当の春が訪れるのを、ただただ待つことしか出来ない、相も変わらず、ひどく平凡な僕なのだけれど…
『小さな胡蝶蘭』
ひらひらと…いや、ビュンビュンと?…。もし、「幸せが飛んでくる」としたら、それはどんなオノマトペで、どんな音と共に訪れるのだろう…。淡いピンク色の花びらをぼんやりと見つめながら、そんな馬鹿げたことを考えていた。
気が付くと、それを微かに照らしていた木漏れ日は、すっかり消えていた…
今日は電車に乗って、少し離れたクリーニング店まで、ジャケットを取りに行った。この間、コーヒーをこぼしてしまい、シミ抜きに出していた。ライトグレーの生地で心配だったけれど、しっかり落ちていてホッとした。
天気が良かったので、帰りは一つ手前の駅で降りて、ガーメントバッグを抱えながら、一駅歩いた。昨日より風も無かったけれど、つい先日切り過ぎた髪の毛のせいか、頭がスースーして、少しだけ身体が冷えた。それでも、気持ちの良い昼下りだった。
家に戻ると、下駄箱に見慣れない杖が立て掛けられていた。伯母と従兄弟が来ていた。
八つ歳上のこの従兄弟とは、別用で、先月の半ばにも会ったけれど、伯母に会うのは、去年の夏以来だった。お茶を飲みながら、父と母と変わりなく話す姿が元気そうで、嬉しかった。
「これを入れて飲むと、本当に美味しいな」と、従兄弟が言った。「わざわざネットで買っているんだって?」
「あぁ、おきな昆布ね」と、僕が言った。
去年、大阪旅行のお土産で買ってきた昆布で、その塩ふき昆布を緑茶に入れると、とても美味しい昆布茶になった。家族ですっかりハマり、今は、阪急百貨店のオンラインストアで購入している。
「和菓子にぴったりだね」と、最中をほうばりながら、従兄弟が言って笑った。「でも、なんでこんな渋いもの知ってるんだよ」
「一度、神戸の伯父さんに頂いたことがあるんだ」
「神戸の伯父さんに?」
「そう、神戸の伯父さんに。ずっと昔のことだけれどね…」僕がそう言うと、母が静かに頷いた。
「伯父さんらしい、粋な、良い趣味だね」と従兄弟が言った。
それからたっぷりと、父と母と伯母が昔話に花を咲かせ、従兄弟と僕が近況を語りながら、耳を傾けた。セピア色の話も、去年の夏やこの冬や神戸の話も、お茶の中でふやけていく昆布のように、僕達それぞれの胸の内で、ゆっくりと溶けていった。
少し前に、駅ビルの花屋で買ってきたミニ胡蝶蘭も、伯母の背もたれの後ろで、木漏れ日に溶けていた。
日が暮れる前に、二人は我が家を後にした。
帰り際、従兄弟に、「いいバーを見つけたんだ」と言うと、「昆布茶のお礼に、一杯ご馳走するよ」と笑った。伯母も柔らかな笑顔を見せた。
誰もいなくなった部屋で、しばらく、淡いピンク色の花を見ていた。本当に小さな胡蝶蘭だ。
花姿とその蝶という字からか、「幸せが飛んでくる」と言われる花…
すっかり日が暮れて、何に照らされることもなく、いつも通りの顔をする小さなそれがもたらすものは、ほんの小さな幸せかもしれない。
それでいい。なんだろう、小さなそれは、誰もが笑っているような気がするから…
日が暮れて、少し冷えてきた。頭がスースーする。
それでも、今日は立春だ。暦の上では、春の始まりとなる。もちろん、まだまだ寒さが募る日々は続くのだけれど…
この切り過ぎた髪の毛がすっかり伸びて、再び美容院にでも出かける頃、本当の春が訪れていることだろう。
ひょっとしたらその頃、コートを脱いで、ライトグレーのジャケットを一枚だけ羽織った僕の周りを、蝶が飛んでいるかもしれない。
言葉では表せない、小さく、幸せな音と共に。