『より高く、より自然に』
額から一筋汗が流れていた。それをハンカチで拭うと、「選ばれるのは、嬉しいですよ」と彼は言った。「ただ…やっぱり、選びたいんです」そう言って笑った。そして、もう一つ“カキ”をほうばってから、すっかり氷で薄まった琥珀色を飲み干した。
先日の三連休の中日、以前、とてもお世話になった知人の転職祝いで、地元の中華料理店に一席設けた。
彼とは、仕事とは全く離れた、ちょっとした趣味の関係で、共通の友人を介して知り合った。元々、共通の趣味を持っていることに加えて、年齢も地元も近く、すぐに意気投合した。
この数年はなかなか、会って一杯…ということも叶わなかったのだけれど、正月に、コミュニケーションアプリで、年賀状代わりの連絡を頂き、転職の事も知って、それならお祝いをということで、時間を作ってもらった。
彼は、カニ肉入りフカヒレスープを飲んでから、豚角煮の衣揚げを丁寧に蒸しパンに挟んで食べた。そして、大根の唐辛子醤油漬けをつまんでから、レモンを絞った紹興酒ロックを、ゆっくりと飲んだ。
相変わらず、大食漢で美食家だった。何より、美味しそうに、そして綺麗に食事をする人だった。
僕がおかわりを頼んだイチローズモルトのハイボールが運ばれると、彼は静かに口を開いた。
「10月付で、支店長の内示が出たんです」と彼は言った。「とても嬉しかったです。この仕事をしていて、嬉しくないわけがない。」
僕は一つ頷き、ハイボールを一口飲んだ。
「ただ、私ははそれを固辞した。そして、新しい場所を探して、見つけて、飛び出しました。」そう言って、またゆっくりと紹興酒を飲んだ。
「この想像もしなかった数年が、そうさせたんだと思います。」と彼は言った。
「考え方や価値観、或いは目標や目的がが変わったということですか?」
彼は首を振って「おそらく…」と言った。「元々持ち合わせていた自分のそれに戻ったというか、何と言うか…取り戻したんだと思います。」
僕は思わず、グラスを掲げた。彼が嬉しそうに、優しい笑顔でグラスを合わせた。
「さて、次は何を食べますか?」と僕は言った。
「広島産のカキがありましたよね?」
メニューを開くと、『1月の限定メニュー』として確かに『新鮮カキ』と載っていた。
「ピリ辛甘酢炒め、または豆鼓醤炒め、または香り蒸しとありますけど、どうしますか?」
彼は「辛くて汗が止まらなそうだけれど…」と前置きしてから、「豆板醤炒めでお願いします」といたずらに笑った。
紹興酒の琥珀色はすっかり薄まっていた。思い出のセピア色の写真を久しぶりに見つけたみたいに、彼は水滴で濡れたグラスを、大切そうに握っていた。
彼は、自ら選んだ新たなその場所で、今までよりも汗を流すことになるかもしれない。時にひどく辛(つら)さを味わうかもしれない。
それでもやがて彼は、それを美味しそうに、綺麗に食べ尽くすはずだ。
その時、僕の手は、またグラスを掲げることだろう。より高く、より自然に。
※ 表題の写真は、当該文章とは関係性がなく、撮り溜めた画像をランダムに使用しただけとなります。ご容赦お願い致します。
『RED』
くるぶし丈のブーツを履き終え、バックを小脇に抱えて奥様が立ち上がると、ご主人は「美味しかったよ」と言ってくれた。そして「待っていたから」と笑った。奥様も優しく微笑んだ。
奥様のアンクルブーツとクラッチバッグは、鮮やかな赤色だった。ご主人の頬は、ほのかに赤かった…
昨日、当店は本年最初の営業日を迎えた。今年はたまたま、正月に多くの予定が立て込んでいたため、元々、市場の初荷が過ぎ、松の内が明けてからの営業と、例年より遅い開始予定だった。そこに急な所用が重なって、結局、1月も中頃となった昨日、ようやく暖簾を掲げることができた。
それでも、待っていてくれるお客様がいる。そして昨日は、SNSでも「待ってました」とコメントをお寄せ頂いた、大切なフォロワー様がいる。心より感謝したい。
その御心を知ってか知らずか、開店前日から、ひどく静かな緊張感が、大将からも女将からも漂っていた。二人にとっては、四十数回目となる新年初営業日だ。それでも、仕込みの手はずを整え、黙って包丁を研ぐ大将からも、新年の花を飾り、黙ってグラスを磨く女将からも、単純に365分の1ではない、特別な一日としての緊張感が漂っていた…
そして初営業日…昨日は、僕の幼馴染みとそのご両親も、足を運んでくれた。彼等が食事を済ませ、店をあとにするのを見送った後に、ちょうど、文頭の常連様の「美味しかったよ」と「待っていたから」を、耳にすることができた。
そして、目にすることが…いや、感じることができた。
奥様のブーツとバッグよりも、ご主人の頬よりも、高揚感と嬉しさで、どこまでも強く赤く染まった、大将と女将の胸の奥を…感じることができた。
今、確かなことが一つある。店を開くこと四十数年目となるこの2023年も、暖簾を掲げる限り、その赤色は、決して絶えることはない。
※ 表題の写真は、当該文章とは関係性がなく、撮り溜めた画像をランダムに使用しただけとなります。ご容赦お願い致します。
『フィナーレ』
「友よ、拍手を!喜劇は終わった。」
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン…楽聖が、最期に残した言葉だ。彼は、自らの人生を喜劇と捉えた…
今日で当店は、本年最後の営業を終えた。暦もあと数日で、今年に幕を降ろす。
フィナーレを迎える僕達の一年は、この一年は、喜劇だったのだろうか、それとも悲劇だったのだろうか…
ひょっとしたら、この一年というのが、適当ではないのかもしれない。突然に、僕達の毎日を、今までの日常を、簡単にひっくり返し、今でも姿を色濃くする、この件の感染症が広がりを見せたあの頃からが幕開けであり、今なお、その劇の最中にあるのかもしれない。
ロミオ&ジュリエットよろしく、悲劇と喜劇は背中合わせで、往々にして紙一重だ。久しくこの感染症が描く僕達の日々も、ひどく悲しいニュースや現実を突きつけると同時に、時に、思わず笑ってしまうような、ひどく馬鹿げた茶番のような側面を持ち合わせていることも確かだったりする。
いずれにしても、あの頃幕を開けた悲劇とも喜劇とも煮え切らないこの毎日が、フィナーレを迎える気配はまだない。或いは、もうそれは、一度幕切れし、新しい日常という、新しい劇中を生き始めたばかりなのかもしれない。
どちらにせよ、僕達は僕達に、まだ拍手を促すことは出来ずにいる。
それでも、僕達に出来ることに変わりはない。もちろん、変えていかなければならないこと、進めていかなければならないことは大いにあるだろう。ただ、僕達がすべきことに変わりはない…
楽聖こと、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、言うまでもなく、音楽史にとって極めて重要な作品と影響を遺した。一方で、彼が遺したとされる幾つかの大切な言葉も伝えられている。
彼は言う…
「人間はまじめに生きている限り、必ず不幸や苦しみが降りかかってくるものである。しかし、それを自分の運命として受け止め、辛抱強く我慢し、さらに積極的に力強くその運命と戦えば、いつかは必ず勝利するものである。」
僕達に出来ることに変わりはない。僕達がすべきことに変わりはない。
この悲劇とも喜劇とも分からない日常に訪れるフィナーレに、万感の拍手が鳴り響くまで…
いずれにしても、今日で当店は、本年最後の営業を終えた。暦もあと数日で、今年に幕を降ろす。フィナーレだ。
そう言えば、ベートーヴェンの遺したこんな言葉も聞いたことがある。
「一杯のコーヒーはインスピレーションを与え、一杯のブランデーは苦悩を取り除く。」
新しい年が幕を開け、再び当店が暖簾を掲げる時…コーヒーではないかもしれない、ブランデーではないかもしれない、それでも、そんな一杯をもたらすことのできる店であれたら…そう願い、そう努めたい。
迫る年の瀬…そろそろ盛んに、「第九」が聴こえてくる頃だろう。
※ 表題の写真は、当該文章とは関係性がなく、撮り溜めた画像をランダムに使用しただけとなります。ご容赦お願い致します。
『もし僕らのことばが…』
昼下りの大阪には、雨が落ちていた。伊達メガネをかけて、コートの胸ポケットに挿していたサングラスをバッグの奥にしまった。駅への連絡橋から、複雑で奥行きのある街を見下ろした。
「ザ・マッカラン ダブルカスク12年…」
友人を傍らに、思わず、そう声を漏らした…
その前日から僕は大阪にいた。何度も書かせて頂いた先日の旅行先が、この大阪だった。
ひどくささやかなものなので、いずれ機会があったら…という事で割愛するけれど、一応、今回の旅には目的があった。
その目的を終え、いやその最中も、いやいやその前の新幹線の車内から…これまた、先日も書かせて頂いた通り、一緒に旅行した友人と僕は、“タイタニック号が沈むぐらい”ビールとハイボールを飲んだ(何故タイタニック号なのか…についても、いずれ、機会があったら…)。もちろん、それが“目的”ではないのだけれど。
いずれにしても、目的も、ちょっとした観光も、食事も、全てを終えた初日の最後に、つまり、一日とは言え、大阪を堪能した後に、僕達はたまたま通りかかった『ハイボールバー梅田1923』というハイボール専門店にいた。駅と僕達が泊まるホテルにほど近く、25時まで営業している…何も文句はない。
モダンな雰囲気でいて、ノスタルジックな空気とレトロな香り漂う店内に、すっかり落ち着きながら、友人は白州の、僕はザ・マッカラン ダブルカスク12年のハイボールを飲んだ。
彼も僕も、もう口を開かなかった。必要がなかった。黙って、ただハイボールを飲んだ。
僕達の他に何組かいた客も、隣のテーブルでボッテガヴェネタのイントレチャーチに覆われたiPhoneを握りしめる女性と、その向かいで、元々テーブルに置かれているミックスナッツを食べずに見つめるだけのその友人らしき女性も、皆、黙ってハイボールを飲んでいた。
どのくらい時間が経っただろう。何杯目かのお互いのグラスが空きそうになった頃だった。
「かなり前だけど、シングルモルトウイスキーを巡る旅行記みたいな本を、お前に借りたよな?」突然、友人が口を開いた。「何ていう本だったかな?」
「かなり前の話だな」と僕は笑った。「おそらく…『ことばがウィスキーで』とか…そんなやつだろ?」
「そんなやつ?」と彼が言った。
「あまりにも昔過ぎて、よく覚えてないんだ」
「嘘をつくな」と言って白州を一口すすり、「お前が、一度読んだ本を忘れるわけないだろ」と彼は言った。
「かなわないな」と言って「まぁ、俺はそういうタイプだな」と、僕は笑った。「悪かった。ちょっと思い出したくないこともあって…。まぁ、いずれにしても、『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』というエッセイを、ずっと昔にお前に貸したよ」
僕がそう言うと、「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」と繰り返して、彼は満足そうに頷いた。そして「この旅行はどうだ?」と言って、わずかに残った白州ハイボールを飲み干した。
「どうって?」
「大阪はどうだってことだよ」
いつの間にか、隣の女性二人の姿がなく、テーブルもすっかり片付けられていた。僕は彼の質問に答えないまま、ハイボールを飲み干して、店員を呼んだ。
そして「僕に同じものを一杯、彼にも僕と同じものを一杯下さい」と伝えた。友人はただ僕を見つめた。
ほどなくして、“ザ・マッカラン ダブルカスク12年のハイボール”が二つ運ばれてきた。
僕が一口飲むのを見てから、彼もゆっくりと一口含んだ。
「なるほどな」と彼は言った。とても静かな声だった。
彼はもう一口飲んでから、「確かに…」と言って、何かをしっかりと思い出すように一度目を閉じてから、グラスの縁に添えられた干しブドウを食べた。
僕も、もう一口飲んだ。もう、ことばは必要なかった。
グラスを傾けた反対側の腕で、時計がそろそろ25時に近付いていた。
『クリスマス・イブの色』
旅先で撮ったクリスマスツリーをセピア色にした。どうしてだろう?たくさんの人だかりをくぐり抜け、レンズ越しにそれを覗いている時からそう思っていた。このツリーをセピア色にしようと…
カメラが不得手で、元々ピンボケの感は否めないのだけれど、本来は冬空が、深まるように碧く、広がるように蒼く、それでも透き通るように青いイルミネーションに覆われたツリーだった。ひどく、美しかった。
ただ、セピア色にした。
12月24日は、クリスマスイブは、特別な一日だ。今日、この日がそうではなくても、昔は…過去には…そう思えた時を、瞬間を、過ごした人も多いと思う。
美しい青が、或いは鮮やかな赤と緑が、色を失いモノクロームとなり、長い時を経てセピアに変わる…だったら、最初から…というわけではない。
どうしてだろう?おそらくは、あくまで僕の個人的な感覚なのだけれど、クリスマスらしい色のイメージが、セピア色なのだと思う。
赤や緑も良い。ホワイトクリスマスの白も素敵だ。ただ、セピア色なのだと思う。
冬の乾いた夜空を射す色とりどりのネオン、胸が踊る気の利いたクリスマスソング、何かしらの奇跡でも信じるように真っ直ぐに互いを見つめ合う様々な恋人達…
街は煌めいている。
それをレンズに収める。セピア色にする。ただ…イルミネーションは、輝きだけは、セピア色にならない。金色になる。金色となって、より煌めく。いつまでも、より煌めく。
今日この日でも、昔でも、過去でも…この特別な一日の色は、クリスマスイブの色は、より煌めくその色だ。
今あるその煌めきに
過去のその煌めきに
煌めき続ける、12月24日に
Merry Christmas…