『もし僕らのことばが…』
昼下りの大阪には、雨が落ちていた。伊達メガネをかけて、コートの胸ポケットに挿していたサングラスをバッグの奥にしまった。駅への連絡橋から、複雑で奥行きのある街を見下ろした。
「ザ・マッカラン ダブルカスク12年…」
友人を傍らに、思わず、そう声を漏らした…
その前日から僕は大阪にいた。何度も書かせて頂いた先日の旅行先が、この大阪だった。
ひどくささやかなものなので、いずれ機会があったら…という事で割愛するけれど、一応、今回の旅には目的があった。
その目的を終え、いやその最中も、いやいやその前の新幹線の車内から…これまた、先日も書かせて頂いた通り、一緒に旅行した友人と僕は、“タイタニック号が沈むぐらい”ビールとハイボールを飲んだ(何故タイタニック号なのか…についても、いずれ、機会があったら…)。もちろん、それが“目的”ではないのだけれど。
いずれにしても、目的も、ちょっとした観光も、食事も、全てを終えた初日の最後に、つまり、一日とは言え、大阪を堪能した後に、僕達はたまたま通りかかった『ハイボールバー梅田1923』というハイボール専門店にいた。駅と僕達が泊まるホテルにほど近く、25時まで営業している…何も文句はない。
モダンな雰囲気でいて、ノスタルジックな空気とレトロな香り漂う店内に、すっかり落ち着きながら、友人は白州の、僕はザ・マッカラン ダブルカスク12年のハイボールを飲んだ。
彼も僕も、もう口を開かなかった。必要がなかった。黙って、ただハイボールを飲んだ。
僕達の他に何組かいた客も、隣のテーブルでボッテガヴェネタのイントレチャーチに覆われたiPhoneを握りしめる女性と、その向かいで、元々テーブルに置かれているミックスナッツを食べずに見つめるだけのその友人らしき女性も、皆、黙ってハイボールを飲んでいた。
どのくらい時間が経っただろう。何杯目かのお互いのグラスが空きそうになった頃だった。
「かなり前だけど、シングルモルトウイスキーを巡る旅行記みたいな本を、お前に借りたよな?」突然、友人が口を開いた。「何ていう本だったかな?」
「かなり前の話だな」と僕は笑った。「おそらく…『ことばがウィスキーで』とか…そんなやつだろ?」
「そんなやつ?」と彼が言った。
「あまりにも昔過ぎて、よく覚えてないんだ」
「嘘をつくな」と言って白州を一口すすり、「お前が、一度読んだ本を忘れるわけないだろ」と彼は言った。
「かなわないな」と言って「まぁ、俺はそういうタイプだな」と、僕は笑った。「悪かった。ちょっと思い出したくないこともあって…。まぁ、いずれにしても、『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』というエッセイを、ずっと昔にお前に貸したよ」
僕がそう言うと、「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」と繰り返して、彼は満足そうに頷いた。そして「この旅行はどうだ?」と言って、わずかに残った白州ハイボールを飲み干した。
「どうって?」
「大阪はどうだってことだよ」
いつの間にか、隣の女性二人の姿がなく、テーブルもすっかり片付けられていた。僕は彼の質問に答えないまま、ハイボールを飲み干して、店員を呼んだ。
そして「僕に同じものを一杯、彼にも僕と同じものを一杯下さい」と伝えた。友人はただ僕を見つめた。
ほどなくして、“ザ・マッカラン ダブルカスク12年のハイボール”が二つ運ばれてきた。
僕が一口飲むのを見てから、彼もゆっくりと一口含んだ。
「なるほどな」と彼は言った。とても静かな声だった。
彼はもう一口飲んでから、「確かに…」と言って、何かをしっかりと思い出すように一度目を閉じてから、グラスの縁に添えられた干しブドウを食べた。
僕も、もう一口飲んだ。もう、ことばは必要なかった。
グラスを傾けた反対側の腕で、時計がそろそろ25時に近付いていた。