『みだれ髪』
残りのマスクが心許なくなってきたのを思い出して、近所のドラッグストアに買いに行った。帰り道にふと、聞き覚えのある歌が耳に迷い込んできた。
近くで営業するスナックから、カラオケと女性の声が漏れていた。
昔の歌だけれど、聞き覚えがあった。何だか気になって、店の前の自販機の脇で耳をそばだてていると…鮮明に思い出した。
美空ひばりさんの『みだれ髪』という歌だ。子供の頃、親戚で集まると、歌の上手な叔母が決まってカラオケで唄っていた。
聞いていたのは子供の頃のはずなのに…歌詞まで思い出した。“好きなフレーズ”まであった。
歌は哀しく静かに流れ…知らない女性の漏らす声が、クライマックスに差し掛かかった。そしてしっとりと、それを唄った。
♪春は二重(ふたえ)に 巻いた帯
三重(みえ)に巻いても 余る秋♪
「春に痩せ、秋にはもっと痩せてしまった」…それを、“痩せた”という言葉を使わないまま、さらには背景の辛さや哀しみまで匂わせながら、聞く者に伝える…
愛や夢や自由や希望と、綺麗な単語で埋め尽くされた歌詞とはまた違った、日本語らしさ香る…素晴らしい歌詞だと思う。
と…すっかり、自販機の物陰にいる怪しい近隣住民になってしまった…
いやいや、次は俺が明るく盛り上がる歌を!!…そう陽気に登場したいところだけれど、あくまでも“個人的”には、カラオケはもう少しだけ我慢かな?なんて…
買ったばかりのマスクの箱を握って、家路を急いだ。
秋が過ぎても、僕達にはまだ…冬が続く。
『足音』
明日は都内で人と会う予定がある。先日の小池百合子東京都知事の呼び掛けに呼応して?タートルネックニットを着て出掛けようと思う。都民ではなく、千葉県県民なのだけれど…
環境大臣時代にクールビズを推進した知事が、「首のところを温めると、防寒効果が高いと言われております」と、電力不足にともなう省エネ対策として、呼び掛けている施策なのだけれど…「言われてしまうと、恥ずかしくて、逆に着づらくなった」と嘆く人もいるようだ。
ただ、1カ月ほど前からフランスのマクロン大統領もタートルネックを着用し、ロシアによるウクライナ侵攻で高騰する暖房費の節約を強調するなど、 この“タートルネック政策”は、欧州でも広がりを見せているらしい。
なんて…長々と"首元"の話ばかりしてしまったけれど、今の僕の関心は、実は“足元”にある。
タートルネックニットの前に…「明日は今年初めてブーツを履いていこう」と決めていた。そして、去年買った大好きな エディ・スリマン がデザインしたお気に入りの一足を引っ張り出して、昨晩からせっせと磨いて準備をした。
ただ、ちょっと雲行きが怪しくて…今は天気予報とにらめっこをしている。雨に濡れないことを願って…
いずれにしても、明日はそろそろ…
首元で暖を取る僕がお気に入りの一足で奏でる足音が、新しい季節のそれと重なり始めていることだろう。
もう、冬がそこにある。
『歓喜の夜』
昨日は、店の定休日と祝日、そして、サッカー『ワールドカップ2022』日本vsドイツの一戦…その全てが偶然にも重なった。
そして、大将と女将…いや両親と一緒にテレビでサッカー観戦をした。
父は「頭の下がる根性だ」と、90分間に渡り、ピッチの端から端に俊足を飛ばし続けた、伊東純也選手を労った。
母は「頼もしい勇気ね」と、ドリブルで仕掛け、同点ゴールの起点となった、三笘薫選手に感嘆した。
もちろん、与えてしまったPKを庇ったし、同点ゴールに興奮し、逆転ゴールに驚愕した。果敢なシステム変更と選手交代に賛辞を送った。
それでも二人はそれぞれ、根性を労い、勇気に感嘆した。
“根性”も“勇気”も、あまり耳にしなくなった言葉かもしれない。
それでも二人は、それに頭が下がる思いをし、それに頼もしさを感じた。
誰かを、何かを重ねたのかもしれないし、シンプルにそう思っただけなのかもしれない。それは分からない…
試合終了のホイッスルからほどなくして、僕はビールをやめて、ウィスキーを飲んだ。
偶然が重なり…歓喜の瞬間を共にした。色々な思いが重なり?…歓喜の瞬間を彩った。
そんな夜に酔いしれた。
『太陽に惠まれた…』
待ち焦がれた…なんて言ったら、少々大げさだけれど、この冬は、数年ぶりに旅行に出掛ける予定を立てていて、色々と準備や手配をしながら、心躍っている。
ただ、またちょっと雲行きが怪しい。
八度目となる、新たな“波”が、確実に僕達を捉えようとしている。
祝日前の明日は、一緒に旅行に出掛ける友人と、その打ち合わせを兼ねて、食事をする約束をしている。
そうだ、明日は先週解禁されたボジョレー・ヌーヴォーでも、飲んでみよう。なんでも、今年のキャッチコピーは『太陽に恵まれたヴィンテージ』らしい。
もちろん、この夏のヨーロッパの熱波のように、ボジョレーにとっても、その生産者にとっても、毎年恵まれたことばかりではない。それでも、“解禁”の日は訪れる。そして、愛好家はその日を待ち焦がれる…
僕達の旅にも、その日は必ず訪れる。予定通り、それがこの冬であることを切に願って、“太陽に恵まれる”ことを願って…明日は美しい赤色が注がれたグラスを掲げてみよう。
『薄っぺらい紙』
あいにくの雨だったけれど、今日は僕自身も卒業した地元の小学校まで、歩いて行った。
この街の市議会議員選挙の投票日だった。投票所が卒業した小学校のため、一票を投じに行った。
国政選挙を含め、最近は期日前投票が多かったので、久しぶりだった。投票を済ませ、外で傘をさしたまま、学校を一望してみた。
勿論、所々は改修されたり、色々と新しくなってはいるのだろうけれど、校舎や校庭を初め、大きな桜の木も、花壇も、水飲み場も…何だか、あの日のままのような気がした。
ここで学ぶ子供達は?
明日も明後日も…変わらないのだろうか?
僕達大人が銀色の箱に折り畳んで入れた薄っぺらい紙…それによって選ばれた者達が作る今の街に、少しだけ先の未来の街に、今は何の権利も有さない子供達は、選択肢の無いまま生きなければならない…
明日は、スッキリと晴れないながらも、雨が上がるようだ。変わらぬこの場所の至る所に、子供達の元気な笑い声が轟くのだろう。
それが、変わらず続くために…
あの薄っぺらい紙は、ひどく重い気がした。