『白』
真っ白なスニーカーを素足に履いた。ちょっとした事情で、知人にプレゼントしてもらったまま、どうすることもできずにいたものだ。
いわゆるモードという感じのスニーカーでもなかった。気に入らないわけではないけれど「今日はこれじゃ、出かけられないかな」と僕は笑った。
僕は黒い服を着ていた。コート、ジャケット、ニット、パンツ…全て黒だった。
「うん…」と一つ頷いた後、慎重に言葉を選ぶように、彼女は言った。
「初めて会う人みたい」
その声こそ、何よりも白かった。
あれから、何年経つだろう。その日も、朝から雪が降っていた…
…昨日の朝は、この街にも雪が降っていた。ゴアテックスのサイドゴアブーツやスニーカーと、色々迷ったけれど、結局、防水加工が施されただけで、いつもとあまり代わり映えのしない黒いレザーシューズを履いて出掛けた。
そんなに強く降ってはいなかった。あまり、積もりそうでもなかった。
ただ、電車の窓から覗く家々の屋根は、薄っすらと積もった白色が、既にその彩りを覆い、それだけで初めて見る街のような気がした。ささやかな雪化粧だった。
僕の前に座る黒い学ラン姿で黒いマスクをした高校生は、耳の白いAirPodsと足元の白いスニーカーが映えていた。隣りで眠るグレージュとブラウンのバイカラーのマスクをした女性が目を開きくしゃみをした。そしてまた目を閉じた。
思い返すと、マスクの着用が日常化し、マスク不足の喧騒が収まった頃は、どうせならと、不織布マスクの上に、好きなブランドの布マスクを重ねたり、変わったデザインやパターンのものをしたりと…色々なマスク姿を楽しんだ。それが段々とシンプルになり、最近は時々、ただの白いマスクを好んで着けたりしている。今もそうだ。
それにしても…マスク姿になって久しい。
そう言えば先日、仕事の都合で時々顔を合わせる女性の前で、何かの拍子にマスクを顎までずらした時、“初めて会う”ならぬ、「知らない人がいる」と言われた。僕もマスクを外した彼女を知らない。その日は、彼女も僕も白いマスクをしていた。
この数年の間に出会った人の中には、マスク姿しか見たことがなく、その素顔を知らない人も多くいる。晴れた日を知らない、雪化粧姿の景色のように。
電車を降りて、雪の中、通り慣れた道を歩いた。いつもの横断歩道で信号待ちをしていると、道の傍らに花が咲いていた。こんなところに花が咲いているなんて…知らなかった。
顔の半分を覆うマスクよりも、この街を微かに覆うような雪よりも、それは白かった。
初めて歩く街のような気がした…
…結局昨日は、雪が雨に変わり、積もらなかった。今日の日中は日が射し暖かった。明日はもっと気温が上がり、桜が咲く頃の陽気になるらしい。
桜が咲く頃…その前に、この数年変わらなかった僕達の姿に、変化が訪れるかもしれない。
天気予報と一緒に見たニュースによれば、来月前半にはマスクの着用ルールが緩和され、屋内・屋外を問わず「個人の判断に委ねる」とする方向で、政府が調整に入ったそうだ。
寒い地域でも白い雪化粧が溶け始める頃、僕は白い不織布を外し、何度も顔を見合わせた人達と、再び、“初めての出会い”をするのかもしれない。
おそらくは、白いスニーカーではなく、代わり映えのしない黒い靴を履いているだろう。
ただせっかくなら、真っ白な心持ちで会えたらいい。あの花のように白い…あの声のように白い…そんな心持ちで。