『満月と「くるみ」』
ふと空を見上げると、雲に覆われた満月が、二月の夜空でおぼろげに身を焦がしていた。伊達メガネが少しだけくもった。改めて辺りを見回すと、さすがに週初めのこの時間は、人通りもまばらだった。マスクを少し下げると、風が静かに鼻先を冷やした…
今週の月曜日、店が閉店の時間を迎え、暖簾を下げた頃だった。携帯電話が震えた。
僕はリビングで一人、閉店に寄せた拙い文章を書くのに、小さなスクリーンを撫でているところだった。
友人からのメッセージだった。
「ママの店で、一人で飲んでいるんだ。悪いけど、来てくれないか?」
そんなはずはないのだけれど、文字がバラバラと崩れ落ちて、消えてしまいそうな気がした。
鏡に目をやると、まだ月曜日だというのに、酷い顔をしていた。
滅多にかぶらない帽子を目深にし、伊達メガネをかけた。意を決して、メルトンのトレンチを羽織った。
仕方なかった。
コートの襟を立てて、店へ向かった…
革張りの重いドアを開けると、いつも通りの少し低い、でも柔らかな声で、「いらっしゃい」とママが言った。
友人は、L字のカウンターの角の席でグラスを握りしめていた。反対の端の席に、一組だけお客さんがいた。三十代半ばぐらいの男性と、少し歳上ぐらいの女性客だった。男性はスーツ姿で、女性は飾り気のない黒いタートルニットに、くるぶし丈のスカートを履いていた。黒いヒールの裏に赤色が覗いた。
「悪いな」と友人が言った。
「構わないよ」
ママが、知多の水割りを僕の前に静かに置いて、ゆっくりと一つ頷いた。
それっきり、彼は何も喋らなかった。僕も口を開かなかった。ママの店で救われたような気がした。
この店は、40代半ばのママが一人で切り盛りしている。こじんまりとした店だ。スナック?ラウンジ?…呼称は分からないけれど、よく行くダイニングバーのマスターに紹介されて以来、友人と一軒、二軒と飲み歩いた後、最後に立ち寄る店だ。ボトルをキープしている。
気分良く酔いが回っている時も、あまり上手く酔えなかったり、センシティブな話をしたい時にも、いつもその時々に合わせた接し方をママがしてくれる。他のお客さんがいても、少し騒がしくても…なんだろう?居心地の良し悪しを意識しないまま、気付くと良い気分で、いつも店を後にしている…
僕達の前に、何杯新しい水割りが置かれただろう。彼はただ黙っていた。僕は何故だか、店に来る途中に見た月のことをぼんやりと思い出していた。
ママが、空になった知多のボトルを掲げて見せた。僕が「一本入れて」と頼んだ。
新しいボトルで作った水割りが、改めて僕達二人の前に置かれた。
「昨日、会えなかったんだ」と、彼が口を開いた。
「そうか」と僕が言った。
「昨日は一人で、食べたくもない昼飯を食べて、飲みたくもないビールを飲んだ」
「次は…来月の第一日曜日?」
「あぁ」と彼は言った。「あと一月、どうやって過ごしたらいい?」
僕が何も答えられずにいると、ふいに店内にメロディが流れ出した。
ママが申し訳ないというように、目配せをした。僕は笑顔で頷いた。
スーツ姿の男性がカラオケを歌い始めた。Mr.Childrenの「くるみ」だった。
「カラオケか…しばらく歌ってないな」と彼が言った。
「どうだい、一曲?」
「まさか」と、彼が笑った。
「なぁ…」と、僕が言った。
「?」
「今夜は、満月だぜ。」
「そうか」と彼が言った。「次の次辺りの満月を、楽しみにするよ」
男性が「くるみ」を歌い上げた。友人も僕も拍手をした。男性も女性も恥ずかしそうに会釈をした。ママが小さく笑った。
「行こうか」と彼が言った。
これから、重い革張りの扉を開けて、おぼろげな満月の下、二月の夜道を彼と並んで歩く。
仕方ない。悪くない。
「くるみ」でも…歌でも…口ずさもうか?