2023-02-04 22:30:00

『小さな胡蝶蘭』

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 ひらひらと…いや、ビュンビュンと?…。もし、「幸せが飛んでくる」としたら、それはどんなオノマトペで、どんな音と共に訪れるのだろう…。淡いピンク色の花びらをぼんやりと見つめながら、そんな馬鹿げたことを考えていた。

 

 気が付くと、それを微かに照らしていた木漏れ日は、すっかり消えていた…

 

 今日は電車に乗って、少し離れたクリーニング店まで、ジャケットを取りに行った。この間、コーヒーをこぼしてしまい、シミ抜きに出していた。ライトグレーの生地で心配だったけれど、しっかり落ちていてホッとした。

 

 天気が良かったので、帰りは一つ手前の駅で降りて、ガーメントバッグを抱えながら、一駅歩いた。昨日より風も無かったけれど、つい先日切り過ぎた髪の毛のせいか、頭がスースーして、少しだけ身体が冷えた。それでも、気持ちの良い昼下りだった。

 

 家に戻ると、下駄箱に見慣れない杖が立て掛けられていた。伯母と従兄弟が来ていた。

 

 八つ歳上のこの従兄弟とは、別用で、先月の半ばにも会ったけれど、伯母に会うのは、去年の夏以来だった。お茶を飲みながら、父と母と変わりなく話す姿が元気そうで、嬉しかった。

 

「これを入れて飲むと、本当に美味しいな」と、従兄弟が言った。「わざわざネットで買っているんだって?」

 

「あぁ、おきな昆布ね」と、僕が言った。

 

 去年、大阪旅行のお土産で買ってきた昆布で、その塩ふき昆布を緑茶に入れると、とても美味しい昆布茶になった。家族ですっかりハマり、今は、阪急百貨店のオンラインストアで購入している。

 

「和菓子にぴったりだね」と、最中をほうばりながら、従兄弟が言って笑った。「でも、なんでこんな渋いもの知ってるんだよ」

 

「一度、神戸の伯父さんに頂いたことがあるんだ」

 

「神戸の伯父さんに?」

 

「そう、神戸の伯父さんに。ずっと昔のことだけれどね…」僕がそう言うと、母が静かに頷いた。

 

「伯父さんらしい、粋な、良い趣味だね」と従兄弟が言った。

 

 それからたっぷりと、父と母と伯母が昔話に花を咲かせ、従兄弟と僕が近況を語りながら、耳を傾けた。セピア色の話も、去年の夏やこの冬や神戸の話も、お茶の中でふやけていく昆布のように、僕達それぞれの胸の内で、ゆっくりと溶けていった。

 

 少し前に、駅ビルの花屋で買ってきたミニ胡蝶蘭も、伯母の背もたれの後ろで、木漏れ日に溶けていた。

 

 日が暮れる前に、二人は我が家を後にした。

 

 帰り際、従兄弟に、「いいバーを見つけたんだ」と言うと、「昆布茶のお礼に、一杯ご馳走するよ」と笑った。伯母も柔らかな笑顔を見せた。

 

 誰もいなくなった部屋で、しばらく、淡いピンク色の花を見ていた。本当に小さな胡蝶蘭だ。

 

 花姿とその蝶という字からか、「幸せが飛んでくる」と言われる花…

 

 すっかり日が暮れて、何に照らされることもなく、いつも通りの顔をする小さなそれがもたらすものは、ほんの小さな幸せかもしれない。

 

 それでいい。なんだろう、小さなそれは、誰もが笑っているような気がするから…

 

 日が暮れて、少し冷えてきた。頭がスースーする。

 

 それでも、今日は立春だ。暦の上では、春の始まりとなる。もちろん、まだまだ寒さが募る日々は続くのだけれど…

 

 この切り過ぎた髪の毛がすっかり伸びて、再び美容院にでも出かける頃、本当の春が訪れていることだろう。

 

 ひょっとしたらその頃、コートを脱いで、ライトグレーのジャケットを一枚だけ羽織った僕の周りを、蝶が飛んでいるかもしれない。

 

 言葉では表せない、小さく、幸せな音と共に。