2023-02-12 22:30:00

『椅子』

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 誰もいなかった。一人になっていた。ただ、彼女が席を立ってから、その後、この場所に誰がいたのか、どんな人達がいたのか、まるで思い出せなかった。そもそもの初めから、一人だったのかもしれない…そんな気がしてきた。

 

 閉店時間には程遠かった。僕の席からは、外は見れなかったけれど、まだ日が落ちる時間でもない。

 

 普通なら一番混み合うはずの、休日の、夕方前のコーヒーショップに一人…お店には申し訳ないけれど、悪くない。

 

 もう一度見渡してみた。やっぱり誰もいない。

 

 溶けた氷で薄まったアイスコーヒーと僕、傍らに置かれたコート、ストール、クラッチバッグ、そしてDelReYのチョコレート…他には何もない。

 

 腕時計を見た。ホッとした。何度見ても、世界は止まらずに、動いていた。そして、座るべき椅子はいくらでもあった…

 

 ……昼下がりのコーヒーショップは混雑していて、椅子取りゲームのちょっとした大会のように、忙しなく、人が立ったり座ったりしていた。

 

 その間をすり抜けながら、小脇にクラッチバッグを抱え、片手でコーヒーの乗ったトレーを持って歩くのは、なかなか苦労した。

 

 そんな僕の様子をずっと見ていたらしく、一番端の席で、彼女が笑っていた。

 

 席の前に着き、コートを脱いで、ストールを取って座ると、「お疲れ様」と彼女が言った。そして「珍しい…アイスコーヒー?」と驚いた。

 

「うん。暖かいし、何だか喉が乾いて」と僕が言うと、ただ、黙って頷いた。彼女は、紅茶を飲んでいた。

 

 ストローで、アイスコーヒーを一口飲んでから、頼まれていた本と、彼女が仕事で使わせて欲しいという、ちょっとした資料のようなものを手渡した。特別なことではない。もう五、六年ほど、毎年この時期に彼女に会って、同じことをしている。

 

「本当に毎年ありがとう」と、彼女は頭を深々と下げた。そして「はい、いつもの」と、紙袋を僕へと手渡した。“いつもの”ちょっと早い義理チョコ兼お礼だった。

 

「こちらこそ、毎年ありがとう」

 

「あっ、そうそう…」

 

「わかっているよ」と僕が言った。「ホワイトデーのお返しはいらないんだよね」

 

「うん、いらない」と、彼女が笑った。

 

「でも、こんな高価な義理チョコを、毎年申し訳ないよ」

 

「この本と資料に助けられているし、それに…」

 

「それに?」

 

「誰が、義理チョコなんて言った?」と、今度はいたずらに笑った。

 

 僕も笑って、コートの傍らにチョコレートを置いた。

 

「ねぇ、エル君に会ってる?」と彼女が聞いた。エル君とは、僕の友人のニックネームだ。

 

「会っているよ。少なくとも月に二、三回は会って、飲んでいるよ」

 

「そんなに?」

 

「うん。年末は、大阪旅行までしたよ」

 

「二人で?」

 

「そう、二人で」と言って、僕が笑うと、彼女も顔をクシャクシャにして笑った。

 

「今度私も、二人の席にお邪魔していいかな」

 

「もちろん、大歓迎さ」

 

「ありがとう」そう言うと、彼女は、本と資料をバッグにしまった。

 

「まだ、いる?」

 

「うん、もう少しだけ」

 

「そろそろ行くね」そう彼女が言って、僕はただ頷いた。

 

 オーバーサイズの黒いチェスターコートを羽織って、鮮やかな黄色いマフラーを巻くと、彼女は一度手を振り、バッグと紅茶のトレーを持って、席を後にした。僕が友人と会う時、連絡してとは、一言も口にしなかった。

 

 おそらく僕が、友人に彼女との今日のやり取りを伝えることはない。彼女もそう思っているだろう。

 

 僕達は日に日に、伝えるべきか否かわからないことに、口をつぐむのが上手になっていく。その代わりに、大切なことの伝え方を時に忘れ、いずれ見失ってしまう。

 

 何だか、帰る気分にならなかった。アイスコーヒーを飲んだ。なんの味もしない気がした。スマートフォンで少しだけSNSを覗いた。それから、電子書籍の適当な小説を買って読んだ。

 

 少しづつ、人が減っていった。椅子取りゲームが落ち着いてきたようだ。

 

 僕達は、そんなゲームを何度も何度も繰り返しているのかもしれない。

 

 柔らかい椅子を求め、見つけて、座っては立ち、無くなり、また見つけると、誰かに奪われ、次を求めて彷徨う…同じ椅子にもう一度座れることは…

 

 ただ時に、小さくとも、固くとも、一つの椅子に大切な誰かと座れることもある。もう、立ちたくないとそんな想いになることもある。

 

 そんな想いを求めて、ゲームに飛び込む。そして世界は、止まらずに動き続ける。

 

 ただ、忘れたくはない。ゲームチェンジもゲームオーバーも、決めるのは自分自身だ。

 

 腕時計を見た。時間は十分にある。まだもう少し、座っていよう。

 

 アイスコーヒーの氷が、すっかり溶けて無くなっていた。