2023-04-08 22:30:00

Vol.52『真夜中のチューリップ』

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 春の訪れとともに、少しだけ、せわしない日々が始まった。それは、4月の訪れとともに、徐々に、確かな忙しい日々となって僕を捉え、眩しく、優しいはずの季節を曖昧にした。

 

 勿論、あくまで僕個人としての忙しさなのだけれど…いずれにしても、ゆっくりと桜を見ることも叶わなかった。

 

 仕方なく…例えば、夜にはちょっと良いお酒を傾けたり、朝にはちょっと良いコーヒーを淹れたりと、恥ずかしながら、そんな俗っぽいことでバランスを保って…

 

「まぁまぁ」と自分をなだめながら、毎日をやり過ごしている。

 

 

 ただ、この間の休日は、個人的な仕事も、約束事や用事も重ならずに、久しぶりに、のんびりとした時間を過ごした。

 

 

 

 少しだけ遅く起きて、“良い”方ではなく、いつも通りのコーヒーを淹れて飲んだ。充分だった。

 

 暫くぼんやりと新聞を眺めたあと、メールチェックをしてから、必要な家事を済ました。

 

 気が付くと、14時を回っていた。

 

 昨夜食べ損ねた夕飯の残り物の、ロールキャベツを温め直して食べた。春キャベツが甘かった。

 

 恐る恐る、昨夜のことを思い出した。

 

 

 

 昨夜は、避けられない事情により、とある店で、とある人達と、味覚としてではなく、心持ちとして、美味しくない酒を飲んだ。店のせいでも、人のせいでもない。僕自身の事情で、美味しくない酒だった。心も体も、ひどく疲弊した。

 

 そもそも、疲れもストレスもピークに達していて、ギスギスとしたそれらが、外面的にも露呈するほど、ひどい状態だった。もしその日の僕が、ネジ工場のベルトコンベアーを流れるドリルビスならば、作業員は迷わず、不良品の山に投げ捨てていたことだろう。

 

 それでも何とか、当初からの予定時間をやり過ごして、とある店を出て、とある人達の帰りを見届けた。

 

 電車は、とっくに走っていなかった。大回りして、駅の反対側のタクシー乗り場まで歩くしかなかった。

 

 自販機で買った水を飲みながら歩いていると、街路樹の隣にチューリップが植えられたいた。手元も覚束ないまま、何故だかそれを、スマートフォンのカメラに収めた。

 

 それからのことを、あまり覚えていない。酔って記憶を失くしたわけではない。タクシーに乗ったのも、ベッドに入ったのも把握している。鮮明に覚えている。ただ、その時の頭と体と心が、一致しているという感覚がなかった。

 

 まぁ、どうでもいいことだ。とりあえず、大丈夫そうだ。

 

 昨夜のことを思い出しても、ゆったりとした時間を楽しみ、くつろげている。

 

 出鱈目な疲れやストレスが和らいでいるんだと…そう、明らかに、正確に、感じることができた。

 

 

 

 もう一度、“いつも通りの”コーヒーを淹れた。テレビを付けて、本日ニ杯目のそれを飲みながら、DAZNで野球を観た。ちょうど、外国人選手が大きなホームランを打ったところだった。

 

 のんびりと野球を観ながら、スマートフォンをいじって、いつも使っているシャンプーを買った。少しだけ、値上がりしたような気がした。

 

 そして、お店で何度か見て、気になっていたブレスレットを、公式サイトで買った。明らかに、衝動買いだった。

 

 大きな歓声が鳴り響いた。今度は相手チームのクリーンナップが2ランホームランを放って、同点に追い付いた。

 

 その選手がバットを振る前の、満員の観客では4年ぶりとなる、地鳴りのような声出し応援が心地良かった。

 

 しばらく、何も考えずに試合に没頭した。

 

 

 

 相手のエラーもあり、僕の贔屓のチームが勝利した。

 

 何だか、とても嬉しくて、誰かに伝えたくなった。

 

 勝利も、2ランホームランも伝えたかった。

 

 それだけではない。ブレスレットの衝動買いも、シャンプーの値上がりも伝えたかった。春キャベツが甘かったと、伝えたかった。

 

 どれも、ひどくささやかななことだ。

 

 そんなささやかなことにも、何かしらの意味があるのかもしれない。或いは、ないのかもしれない。どちらだって構わない。

 

 意味あるものだけが、僕の、僕達の毎日を、いつも通りの休日を、或いは、野球の声出し応援すら禁じるしかなかったこの数年を、形作っているわけではない。

 

 

 

 突然、電話が鳴った。鳴ってしまった。おそらくは…

 

「もしもし…」

 

 ささやかだけれど、伝えたいことは多々ある。でも、久しぶりの、のんびりとした休日に、これから出掛けるのは…

 

 電話を切ってから、昨夜、覚束ない手で撮ったチューリップの写真を、スマートフォンのスクリーンに写した。

 

 赤かった。真夜中に赤かった。

 

「まぁまぁ…」と、暗闇の中で、その赤色が僕をなだめているような気がした。

 

 

 

 さぁ、手掛ける準備をしよう。

 

 一歩外に出れば、今の僕の目には、眩しく、優しい季節が映るだろう。

 

 どこまでも、鮮明に。