『風のようなもの』
風に姿は無い。僕は、風を見ることができない。ただ、風は音を奏でる。その音に、僕は風を知る。
それだけではない。舞い上がる落ち葉や、野球少年の飛ばされたキャップ、そして、何処かの家から漂うクリームシチューの甘い香りが、僕に風の輪郭を知らせる。
今日は風の強い一日だった。風は音を立てて吹き抜けながら、色々なものを見せ、色々なものを香らせた。
首に垂らしたマフラーが何度も飛ばされそうになり、手に持ったガーメントバッグが何度も煽られた。
そのバックの中には、先日、旅行に着ていったグレーのジャケットが入っていた。
フラップポケットの周辺に、いつの間にかシミが出来ていて…今日は、地元の駅ビルに入っているクリーニング屋さんに、染み抜きを頼みに来た。
おそらくは、旅先の夜、最後に入ったハイボールバーで、何かをこぼしたのだろうけれど…明確には覚えていない。
一緒に旅行に行った友人にも聞いてみた。ただ、彼もあまり覚えていないらしい。
「そんなに飲んだかな?」と僕が尋ねると、彼は一つため息を付き「新幹線から始まって…相当だ」と言った。「俺達が飲んだビールとハイボールで、タイタニック号が沈むぐらいにな」
とりあえず、クリーニング屋さんが、シミ抜きを引き受けてくれた。そして、おそらくは元通り綺麗に戻せると言ってくれて、ホッとした。
駅ビルからコンコースを抜け、改札の入り口付近に出ると、赤と白の服を着た女性が何やらチラシを配っていた。大きく自家製と書かれたローストチキンのそれだった。
そうだ。明日はクリスマス・イブだった。一年に一度の特別な一日だ。誰にとっても素敵な一日になると良い。
駅のホームにも強い風が、音を立てて吹き抜けた。
僕達が豪華客船を沈没させるほどビールやらハイボールを飲んだ旅行の一日は、ただの一日だ。煌びやかなイブとは異なる、どこにでもある一日だ。
それでも…僕達には何かが残る。特別な何かが残る。
ジャケットのシミが消えても、酔っ払って記憶が曖昧でも、何かが残る。残っている。
それは風のようなものだ。それに姿は無い。僕はそれを見ることができない。それで十分だ。
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